2010年4月18日日曜日
ボストン・フリーダムトレイルの旅12 ポール・リビアの家
この頃になると、もうフリーダムトレイルの赤い線のことなど、忘れていた。次のスポットはポール・リビアの家だ!と、夫は道にいた地元の人に行き方を聞き、適当に歩くようになっていた。イタリア人街を通り抜け、私達はいつの間にか、ポール・リビアの家の前に着く。もしかしたら、もう閉館になっているかもしれないと思い、急いで受付に行く。オールド・サウス集会場で購入したチケットを提示し、門を押して中に入ると、ポール・リビアの庭であったと思われる場所で、小学生を相手にガイドが話しをしていた。ボストンで最も古い民家であるその家の中に入ると、まず古い台所がある。その台所は家の中で最も古い部分で、確かにそこだけ、17世紀のヨーロッパの田舎のような雰囲気だった。とても簡素な暖炉。古びたテーブル。暗く小さな台所は、時が止まったかのように、ひっそりと存在した。
次の間はリビングルームで、そこには若い館員が、観光客の質問に答えるために立っていた。リビングルームには、大きなテーブルやカップボード、椅子等があったが、ほとんどの家具はポール・リビアに属する物ではなく、博物館が後に運び込んだ物だった。ポール・リビアは最初の妻との間に8人、二番目の妻との間に8人、計16人の子供を持っていたという。子供達全員が青年期まで成長したわけではないが、それでも大家族であることに変わりはない。そのような多人数が一斉に食事ができるような大きなリビングルームではなかった。低い天井からは、2階を歩き回る観光客の足音がギシギシと伝わってくる。ボストン最古の家なのだから、人数制限をした方が良いのではないかと、妙な事が気になりだした。
狭い木造の階段を昇ると、ポール・リビアと妻の主寝室が登場する。そこにも背の低い館員が、観光客の質問に答えていた。私が「ポール・リビアが使っていた家具はどれですか?」と聞くと、嬉しそうに「隣の部屋にあるロックチェアーは、彼のお母さんの物です」と答える。彼女は「彼の~が、エイブラハム・リンカーンの~と結婚して」と、ポール・リビアとリンカーン大統領が遠縁に当たることを説明しだしたが、詳しいことは覚えていない。しかし、その当時のボストンは、現在のような大都市ではなく、人口も限られたものであっただろうから、ポール・リビアとエイブラハム・リンカーンが親戚であっても、おかしくはないだろう。私が「こんな小さな家に16人の子供を持っていたなんて信じられない」と言うと、「その当時はお金持ちの家でも、こんな感じだったんです。両親のベッドルームが一つ、男の子用の部屋が一つ、女の子用の部屋が一つと、子供達は皆同じ部屋で寝たのです」と、さすがに歴史を良く知っているらしい答えが返ってきた。
フリーダムトレイルを歩くのに一番困るのは、足が痛くなることだ。私の足の痛みはこの頃、頂点に達していたので、外に出ることを夫に告げ、私は2階から出ている外階段を使って、庭に向かった。そこにも人がたくさんおり、ベンチに腰を下ろした私は、そんな観光客をボーっと見ながら、しばしの休憩を楽しんだ。私が座っていたベンチの左側には、ガラスケースに収められた大きな鐘がある。アメリカにこのような鐘は良くあり、一体この鐘にどんな意義があるのかはわからなかったが、写真だけは撮っておいた。後で降りてきた夫によると、その鐘はポール・リビアが作った物ということだ。
ポール・リビアの家を出、フリーダムトレイルの赤い線に沿って歩くと、ポール・リビアの銅像が出てきた。有名な「真夜中の疾駆」の姿らしく、勇ましく馬に乗っている。ポール・リビアはイギリス軍が進行してきた時に、月明かりだけを頼りに馬に乗り、サミュエル・アダムスやジョン・ハンコックにそのことを伝えたので有名である。
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