2010年4月20日火曜日

ボストンから、グレイハウンドでニューヨークへ!




2009年6月11日

フリーダムトレイルを終えた翌日、私たちはグレイハウンドというアメリカ全土を走る長距離バスに乗って、ニューヨークまで行かなければならなかった。午前中、もう一度ハーバード大学に戻って見学をしようと、前日は言っていたのだが、朝起きてみるとそんな余裕は無く、直接グレイハウンドのバス乗り場に向かう。重い荷物を抱え、ホテルのすぐ裏にあるバス停で地元のバスに乗り、地下鉄の駅に行った。前日買った一日券は、24時間有効らしく、まだチケットを買うことができた。地下鉄に乗り、グレイハウンドの駅がある「サウスステーション」に向かう。地下鉄を降りた所で、そばにいた女性にグレイハウンド駅への行き方を聞いたら、大変丁寧に教えてくれた。「サウスステーション」は地下鉄と、グレイハウンドと、長距離列車のアムトラックが集結する総合駅だった。バスに乗るにはまだ時間があったので、アムトラック駅前のコンコースで昼食を取ることにする。一旦バスに乗ってしまえば、食事を取ることはできない。

サウスステーションのコンコースは天井が高く、たくさんのテーブルの周りには、旅行客相手のレストランがあった。大抵は急ぐ旅行客のためか、すぐに準備ができるファーストフードか、サンドイッチなどのデリが多かった。私たちはチキンの試食を客に配っていたカリビアンスタイルの店から、コンボを注文した。白い携帯用の箱に入った食事を持って、旅行客が行き交うコンコースに戻り、テーブルに着く。そこは空港のような雰囲気だった。スーツケースを持つ旅行者が、周りを歩いてい行く。ここに来て、ボストンには背が高い人が多いと思った。私の夫は2メートル近くあり、彼より背が高い人に会うことは滅多に無いのだが、サウスステーションを歩く人の中には、夫より背が高い人を見かけた。

食事も終え、いよいよグレイハウンドの駅に行く。歩いている途中で、窓から中華街の門が見えた。そういえば、ニューヨークに住む日本人女性のブログで、ニューヨークからボストンまで中華街から激安のバスが出ていると書いてあったなと思い出した。ニューヨーク・ボストン間を15ドルで旅行できるらしいが、私たちが利用したグレイハウンドも、ボストンからニューヨークまで一人15ドルだったので、グレイハウンドも捨てた物ではない。それにボストンでは、バス停も同じ場所にある。エスカレーターを上がり、グレイハウンドのチケット売り場に行けば、隣はこの中国系激安バスのカウンターだった。私たちが列に並んでいる時、受付カウンターにいた中国人の女性が、電話口で大きな声でまくし立てていた。中国語だったので、何を言っているのか全くわからなかったが、あそこまで怒鳴り込むことも無いだろうにと思った。

チケットカウンターに行き、ここで問題が発生する。グレイハウンドのチケット売り場には、予め予約をした客用のチケット販売機があるのだが、夫がクレジットカードを入れても、チケットを発券しない。カウンターに行って予約番号を言い、チケットを発券してもらおうとするが、インターネットで予約した時にチケットを印刷しなければならなかったのだ。それに気づかなかった夫は、自宅で印刷をしておらず、その予約チケットは、彼のEメールからでないと、発券できないと言う。私たちを担当した係員は、そのチケットをどうしたら発券できるか知らないというので、他の係員が帰ってくるまで、待たなければならなかった。夫はこの時点でかなり焦っていたが、私はなんとなく、「なんとかなる」という気がしたので、「大丈夫よ。まだ時間はあるわ」と、夫に笑顔で言った。私の予感は的中し、戻ってきた他の係員が、事務所で私たちのチケットを発券してくれた。

チケットを握り締めた私たちは、大急ぎでバス乗り場まで走る。時間に余裕を持ってホテルを出たのに、結局最後は走ることになる。今回の旅では、いつも走っていたような気がする。バス乗り場に着くと、長い列が出来ていた。どうやら、まだバスは発車していないようだ。やっとホットし、列の終わりに加わり、バスを待つ。しかし今度は、私たちのバスが、時間になってもやって来ない。列に並んでいた人々が、グレイハウンドの社員にどうなっているのかたずね始めるが、どうやら、誰も何も知らないようである。だいぶ、どやどやしてきたところで、私たちの前にいた女性と話しをすることになった。彼女は、ボストン近郊のどこかの都市からやってきていて、ニューヨークにいる息子さんのところに行く予定らしい。私の夫がオバマ大統領の話をし出すと、彼女は「私は平和団体に勤めています。大統領が、他国と話し合いをしているのは、大変素晴らしいと思います」と言った。それに共感した私は、「話し合いのみが、平和を生み出すのだと思います。武力の行使は、結局は憎しみしか生まれず、共存への道には導きません。」と言うと、その女性は、大変喜んでいた。意外な所で、平和について語り合うことができ、私にとっては有意義な時になった。

1時間近く遅れてやってきたバスに乗ると、私たちの隣に、若いアメリカ人が座った。彼は誰かに電話をかけようとするが、電波が届かないらしく、ぶつぶつ文句を言っていた。
「シグナルが無いの?」
と私が聞くと、
「いとこと話しがしたいんだが、電話がかからない」
と言った。これがきっかけで、彼と延々と話しをすることになり、家族のこと、今までした旅行のことなどを話し合った。彼はイタリア系のアメリカ人で、東部のどこかに住んでいるらしいが、カリフォルニアの叔父の会社で働いたこともあるということだった。イタリアにいとこがいて、イタリアにも行ったことがあるという。日本料理も好きで、東京に行ってみたと言っていた。この彼に、夫が仏法について語り出した。夫が読んでいた仏法の本について語ると、彼は、「全く納得する内容ばかりだ」と、かなり興味深く聞いてくれた。夫が読んでいた本の題名を書きとめ、後で読んでみたいと言う。そこで私が、「彼に本をあげちゃえば?」と言うと、「いや、この本は、著者からサインを貰ったから、簡単にはあげられないよ」と言う。
「きっと本を書いた人は、そんなこと気にしないと思うわよ。なんなら、カンザスシティーに帰ってから、私が同じ本を買って、著者に送って、サインして貰うように頼んであげるわ。」
かなり渋々ではあったが、最終的に夫はこの男性に本をあげた。

途中1回トイレ休憩を入れ、コネチカット州を通り、バスはだんだん都会らしい景色の中に入る。いつの間にかニューヨーク州に入っていたようだ。道が混み出し、都会のごみごみした風景になる。バスで出会った男性は、そこがブルックリンだと教えてくれた。なんだか、日本のような風景だと思った。不思議なことに、私はニューヨークにいる間中、日本に帰ったような錯覚に襲われた。久しぶりに見る、道に溢れかえる人々。いつまでも消えないネオン。少し古びた雑居ビル。そして、喧騒。私が住んでいる中西部に、そういう風景は無い。「都会」というのは、どこの国かということは関係なく、世界共通したものがあるのだろう。





バスは長い旅を終え、ようやくニューヨークのバスターミナルに入る。荷物を受け取り、ホテルに向かう段になると、バスで出会った男性が、私たちをホテルまで連れて行ってくれるという。グレイハウンド駅からホテルまでの行き方が全く分からなかった私たちには、これはありがたい申し出であった。シカゴでもボストンでも、見知らぬ人に助けられることが多かったが、ここでも不思議と、こういう人が現れるのである。私たちは、大きなスーツケースを引っぱりながら、彼の後を歩き出した。ニューヨークの人たちは、歩くのが早い。スーツケースを引っ張りながら歩くのは大変であったが、周りにもそういう人はたくさんいる。ニューヨークは、大層、活気のある街だ。

バスで出会った男性は、「ペンシルベニア・ステーション」から、電車に乗り、いとこに会いに行くということだった。私たちのホテルの方向を指し示し、「本をくれてどうもありがとう」と夫に礼を言い、駅の中に消えていった。

ペンシルベニア・ステーションから道一本渡った所に、私たちがこの後3泊することになる「ホテル・ペンシルベニア」がある。ホテル前にはたくさんの国旗があり、外見はかなり豪華で良さそうなホテルだった。回転扉を押して中に入ると、丁度、チェックインするピーク時だったのか、カウンター前には、荷物を持った客達が、長い列を作っている。そこで話される言葉は、ほとんどが英語ではなかった。私は、話すことはできないが、中国語と韓国語の音は分かる。フランス語は、少しくらいなら話すことができる。スペイン語も、聞き分けることができる。ドイツ語も「これはドイツ語だ」と、認識することはできる。しかし、そこに溢れている言語は、私が聞き分けられる限度を遥かに超えており、全くどこの国のものか見当がつかなかった。まあ、世の中にはなんと多くの言語があることだろうか!地球の縮図を見ているようで、なんとも不思議な光景だった。一体ここは、どこの国だろう。ふと、ニューヨークに以前住んでいた同僚の言葉が、頭をよぎる。

「ニューヨークはアメリカじゃなくて、ニューヨークっていう、一つの国なのよ」

まさにそんな感じだった。

エレベーターに乗り、部屋がある通路に行くと、冷蔵庫のドアのような扉が付いていた。ドアが二重になっているのである。防犯のためなのかもしれないが、なんとも奇妙な形だと思った。やっとドアを開けると、そこには、小さな部屋がある。ツインサイズのベッドが一つ、机が一つ、テレビが入った箪笥が一つ。これだけの家具で、部屋がいっぱいだ。今まで私がアメリカで泊まったホテルの中で、一番小さな部屋だった。バスルームには、六角形の小さなタイルが床に敷き詰められ、タイルの間は、薄汚く汚れていた。ここを裸足で歩く気がせず、トイレの中では、サンダルを履くことにした。アメリカのホテルでスリッパ等を期待するのは間違いで、こういうことが気になる人は、家からスリッパを持参した方が良い。

ホテルを出て、とにかく夕食を食べに行くことにする。今回楽しみにしていたのが、「ニューヨークで吉野家に行く」ということだ。吉野家など、日本でも行った記憶があまりないのだが、日本企業のレストランに行くなど、カンザスシティーでは考えられないので、私にとっては、「ニューヨークならでは」の出来事なのである。吉野家はホテルから歩いていける距離にあった。ファーストフードレストランのような雰囲気の店には、アジア系の客が多くいた。若い日本人の女の子もたくさんいた。インターネットで薦められていたように、「汁だく」にしてもらい、席に着いたが、あまり感動するほどの味でもなかった。少し塩気がきつすぎると思った。今回だけで、吉野家に行くのは十分である。





さて夕食を済ませ、いよいよニューヨークの夜の街を歩くことになる。タイムズ・スクエアーは、平日の夜遅くであるにもかかわらず、まるで夏祭りのような人出だった。私たちのような観光客がほとんどで、カメラを片手に思い思いに写真を撮っている。こういう所では、人目を憚らずに堂々と写真を取れるのが良い。


歩行者天国を歩いていると、コメディークラブのチケットを売る人たちがいた。一人10ドルで1時間半のショーが見れると言う。お手頃価格で、ニューヨークっぽいことができると思い、夫と私は、そのショーを見に行くことにした。示された店舗の暗い地下に入り、更に奥に進むと、既にコメディアンの一人が狭いステージの上に立っていた。その小さな部屋には、30人ほどの観光客がいた。ほとんどはヨーロッパからの旅行客で、コメディアン達は、やたらと客の出身地を確認したがる。後で気付いたのだが、こういう商売をしている人たちは、いろんな国やアメリカでも地方の人と話しをしなければならないので、地方ネタで客の気分を損ねないように、気をつけているのだ。5人いるコメディアンの中で、私は3番目に登場した人が一番面白いと思った。素直に笑える話しで一杯だった。その人は、アメリカで有名なコメディーショー「Chappelle's Show」に出演していると言うことだった。私はDavid Chapelle が結構好きで、いつか彼のライブに行けたら良いなと思っているので、彼の番組に出演しているコメディアンのコメディーが見れて嬉しかった。全部のショーが終わり、店内を歩いていると、さっきまでショーをしていたコメディアンの一人が、ギターの練習をしていたので(その人はギターを弾きながらコメディーをする)、一緒に写真を撮ってもいいかを聞くと、快く承諾してくれた。夫と彼の写真を撮ると、私のお気に入りのコメディアンが横にいたので、彼も写真に入ってくれるように頼むと、すんなり入ってくれた。この時撮った写真をギターのコメディアンに見せると、「メールで送ってくれる?」と、なんとも庶民的なのである。この時にした約束はまだ果たせないでいるが、普通に良い人たちであった。




こうしてニューヨーク初日は更けてゆき、その後ホテルに戻り、やっとその日一日を締めくくった。

フリーダムトレイルを終えて



フリーダムトレイルの旅を始める前に、地下鉄の駅で、バスと地下鉄乗り放題の1日券を購入した。せっかくお金を払ったのだから、元を取らなければと、この後は積極的にバスと地下鉄を乗るようにした。この頃はすでに6時半頃で、レッドソックスの試合を見に行くには、遅すぎることがわかっていた。しかし、ホテルに戻るには早すぎる。バスに乗ったはいいが、私たちはどこに行けば良いのかわからなかった。運転手に「どこに行くんだい?」と聞かれ、「さて、どこに行こうか」といった感じなのである。とりあえず、夫が気に入っていた「クインシーマーケット」に行くことにした。ここは、私たちが昼食を取った場所で、たくさんのレストランや店がある。ここで夕食を取り、ショップを見て回った。上の写真は、クインシーマーケットにあるラリー・バードというバスケットボールプレイヤーの足型らしい。有名なバスケットボールの選手であれば、超背が高く、靴のサイズも大きいはずだが、夫はほぼ同じサイズの靴をはいている。


クインシーマーケットを出て、さてどこに行こうかと思っていると、ボストン在住日本人女性のブログで見たガラスの塔が、突然目の前に現れた。これはアウシュビッツなど、ナチスが行ったユダヤ人強制収容所の犠牲者を追悼して建てられた記念碑ということだ。ブログで見ていなければ通り過ぎてしまっただろうが、夫の腕を引っ張り、中に入ってみることにした。このガラスは、薄く書かれた番号で埋められている。この番号は、収容所にいたユダヤ人の番号ということだ。名前ではなく、番号で識別されていたのだ。高い塔いっぱいに書かれた番号に、どれだけ多くの人々が犠牲になったのだろうと、想いを寄せずにはいられない。塔の中には、地下の通風孔なのか、生暖かい、不愉快な空気が吹き上げていた。これはきっと、ナチスが行ったガス殺を意味しているのだろう。それにしても、なぜボストンにこのような碑があるのだろう。ボストンには、ユダヤ系が多く住んでいるのだろうか。そういえば、フリーダムトレイルの途中で見つけた、ポテト飢饉のためアメリカに移住してきたアイルランド人の像も、なぜボストンにあるのか、私には不思議だった。ボストン人は、そういうことに寛大なのかもしれない。それとも、歴史をきちんと記録しなければならないという責任感からかもしれない。





このユダヤ人犠牲者の塔の前には、ボストンで最も古いレストラン「ユニオン・オイスター・ハウス」があった。私たちは既に夕食を食べた後であり、中には入らなかったが、たくさんの客で溢れていた。この後ふと、ホテルがあるケンブリッジに戻れば、ハーバード大学が見学できると思いつき、地下鉄に乗ってケンブリッジに帰ることにした。適当に歩いていると、ボストンの名が入ったTシャツを路上で売っている老人に出会い、紺色に緑で「ボストン」と書かれたTシャツを、5ドルで買った。夫は、私がこのTシャツを着るたびに、“Hey, Boston!"と言う。

ボストンで「T」とは、地下鉄の駅を意味するらしい。Tの看板を見つけ、駅の中に入るが、そこが何駅なのかわからなかった。駅に駅名が書かれていないとは、日本では考えられない。なんて気の利かない人が設計したのだろうかと思った。もしかしたらどこかに書かれていたのかもしれないが、私たちは見つけられなかった。駅名がわからなければ、どちらの方向の電車に乗ればいいのかもわからない。改札口にいたインフォメーションセンターの係員に聞いたら、「へイ・マーケット」と答えが返ってきた。なんだかあまり親切そうな人ではなかった。

ケンブリッジに着くと、辺りは既に暗くなっていた。ここに来て、クインシーマーケットに二度行かず、ここに直接くれば良かったと思った。ここケンブリッジだけでも一日過ごせるほど、たくさんの見所があるのだ。昔、私は日本の短大の同級生がケンブリッジに住んでいて、彼女の結婚式に参加するために、ケンブリッジに1週間ほど滞在したことがあった。その時にハーバード大学や周りのショップを見学したので、この辺りの様子は大体見当がついた。しかし、とっぷり日も暮れ、写真を撮るには暗すぎると思い、この後は写真を撮っていない。若者が溢れるケンブリッジの駅周辺をプラプラと歩いた後、ハーバード大学の中に入った。夫が「これだけで頭が良くなった気分がするね」と、かわいいことを言った。いかにも歴史がありそうなブロック造りの校舎に、昼間来ていれば写真が取れたのに、と残念であった。この後、バスに乗り、ホテルに向かった。バス停から降りて、前日借りた映画のビデオを返しに、スーパーに行った。そこのスーパーでは、1日1ドルで借りられるDVDのレンタル自動販売機「REDBOX」がある。私は、前々からこれがどんな仕組みなのか、興味があったのだが、要するに、クレジットカードで身元確認がされるのだ。この時見た映画は、「パッセンジャーズ」である。この後、飛行機に乗らなければならない私たちには、少々怖い映画であった。得に最後は、私には想像ができず、かなりショックを受けた。

この後、ホテルに戻り、やっとその日一日を終了する。フリーダムトレイルで一日歩き回り、疲れていたが、大変意義深い旅ができ、満足であった。

ボストン・フリーダムトレイルの旅16 バンカーヒル記念塔



とうとうフリーダムトレイルも、これで終了!途中、見逃したスポットがあるものの、4キロの徒歩旅行を完了し、大変満足であった。このバンカーヒルでは、イギリス軍とアメリカ独立軍との激しい戦いがあり、多くの方が亡くなったことから、この記念塔が建てられた。"Don't fire until you see the whites of their eyes" 「相手の白目が見えるまで、発砲するな」とは、この時の指揮官プレスコットの有名な言葉である。銃弾を有効に使うため、むやみやたらと発砲するのではなく、至近距離に来てから撃て、という意味らしい。

このバンカーヒル記念塔は、丘の上の緑が美しい公園にある。塔の中に入ることはできるのだが、私達が到着した頃には、閉館されていた。中に入った人の話によると、エレベーターがなく、階段を昇らなければならないが、頂上から見えるボストンの眺めは、大変美しいらしい。現在のバンカーヒルは、昔の戦いが嘘のように平和で、仕事を終えた人々が、のんびり犬の散歩をしていた。

やっとフリーダムトレイルの旅も終了し、バスに乗ってボストンのダウンタウンに戻る事にした。公園近くにいた女性にバス停の場所を教えてもらい、痛む足を引きずるように歩きながら、その方向に向かう。バンカーヒルがあるチャールズタウンは、レンガ造りのアパートが多い、閑静な美しい町だった。歩いている人たちが、皆頭が良さそうに見えるのは、私の先入観のせいだろうか。しかし、明らかに中西部の人たちとはタイプが違う。バス停を見つけ、その前で夫と一緒に写真を取った。




ボストン・フリーダムトレイルの旅15 USSコンスティチューション号



ここからはチャールズ川を渡り、チャールズタウンに入る。交差点を渡り、古い橋に着くと、川の中にたくさんのくらげが、プカプカ浮かんでいるのが見えた。透明な輪状のものが、水の中にうようよしているのである。「ここから飛び降りるのは、辞めておいたほうがいいね」と、夫と話し合った。



USSコンスティチューション号とは、世界で最古の軍艦で、ジョージ・ワシントンの命令で作られたらしい。中は一般に公開されており、若い海軍の兵士達が、観光客相手に説明をする。私個人としては、あまりこういうものに関心がないので、少々退屈であった。唯一「ふーん」と思ったのが、水夫達がハンモックで寝ていたことで、ずらりと並んだハンモックを前に、船酔いしなかったのだろうか、と思った。

ここには、船の近くに博物館があるが、私達が行った時はすでに閉まっていた。

ボストン・フリーダムトレイルの旅14 コップス・ヒル墓地



この墓地には、オールド・ノース教会で、ランタンを掲げた「ロバート・ニューマン」が眠っている。

この頃になると、夫が「今夜のレッド・ソックスの試合が見れなくなるから、早く行こう」と私を急かせるようになったので、ここは上の写真一枚を撮るだけで、足早に過ぎ去った。しかし、この墓地のすぐ前にあった道が、とてもボストンらしかったので、フリーダムトレイルには関係がないが、写真を撮った。

ボストン・フリーダムトレイルの旅13 オールド・ノース教会



この教会は、ポール・リビアが「真夜中の疾駆」を行った夜、イギリス軍の侵攻を、レキシントンにいるサミュエル・アダムスとジョン・ハンコックに知らせるため、教会の尖塔にランタンをかけるよう、寺男のロバート・ニューマンに頼んだ事で有名である。「陸路であれば一つ、水路であれば二つ」と、その合図は予め決められていたという。これは、ポール・リビアが途中で捕まることを懸念してのことだった。

それにしても、なぜポール・リビアは、イギリス軍の侵攻を知っていたのか?一部の歴史家や歴史小説では、この時のイギリスの将軍ゲージの妻マーガレットが、アメリカ人医師ジョセフ・ウォーレンに情報を流していたと言うのだ。これが事実であるとしたら、このアメリカ生まれの妻、かなりあっぱれな女性である。アメリカ独立の背景に、女性スパイが働いていたとしたら、私としては、かなり痛快である。

2010年4月18日日曜日

ボストン・フリーダムトレイルの旅12 ポール・リビアの家



この頃になると、もうフリーダムトレイルの赤い線のことなど、忘れていた。次のスポットはポール・リビアの家だ!と、夫は道にいた地元の人に行き方を聞き、適当に歩くようになっていた。イタリア人街を通り抜け、私達はいつの間にか、ポール・リビアの家の前に着く。もしかしたら、もう閉館になっているかもしれないと思い、急いで受付に行く。オールド・サウス集会場で購入したチケットを提示し、門を押して中に入ると、ポール・リビアの庭であったと思われる場所で、小学生を相手にガイドが話しをしていた。ボストンで最も古い民家であるその家の中に入ると、まず古い台所がある。その台所は家の中で最も古い部分で、確かにそこだけ、17世紀のヨーロッパの田舎のような雰囲気だった。とても簡素な暖炉。古びたテーブル。暗く小さな台所は、時が止まったかのように、ひっそりと存在した。

次の間はリビングルームで、そこには若い館員が、観光客の質問に答えるために立っていた。リビングルームには、大きなテーブルやカップボード、椅子等があったが、ほとんどの家具はポール・リビアに属する物ではなく、博物館が後に運び込んだ物だった。ポール・リビアは最初の妻との間に8人、二番目の妻との間に8人、計16人の子供を持っていたという。子供達全員が青年期まで成長したわけではないが、それでも大家族であることに変わりはない。そのような多人数が一斉に食事ができるような大きなリビングルームではなかった。低い天井からは、2階を歩き回る観光客の足音がギシギシと伝わってくる。ボストン最古の家なのだから、人数制限をした方が良いのではないかと、妙な事が気になりだした。

狭い木造の階段を昇ると、ポール・リビアと妻の主寝室が登場する。そこにも背の低い館員が、観光客の質問に答えていた。私が「ポール・リビアが使っていた家具はどれですか?」と聞くと、嬉しそうに「隣の部屋にあるロックチェアーは、彼のお母さんの物です」と答える。彼女は「彼の~が、エイブラハム・リンカーンの~と結婚して」と、ポール・リビアとリンカーン大統領が遠縁に当たることを説明しだしたが、詳しいことは覚えていない。しかし、その当時のボストンは、現在のような大都市ではなく、人口も限られたものであっただろうから、ポール・リビアとエイブラハム・リンカーンが親戚であっても、おかしくはないだろう。私が「こんな小さな家に16人の子供を持っていたなんて信じられない」と言うと、「その当時はお金持ちの家でも、こんな感じだったんです。両親のベッドルームが一つ、男の子用の部屋が一つ、女の子用の部屋が一つと、子供達は皆同じ部屋で寝たのです」と、さすがに歴史を良く知っているらしい答えが返ってきた。



フリーダムトレイルを歩くのに一番困るのは、足が痛くなることだ。私の足の痛みはこの頃、頂点に達していたので、外に出ることを夫に告げ、私は2階から出ている外階段を使って、庭に向かった。そこにも人がたくさんおり、ベンチに腰を下ろした私は、そんな観光客をボーっと見ながら、しばしの休憩を楽しんだ。私が座っていたベンチの左側には、ガラスケースに収められた大きな鐘がある。アメリカにこのような鐘は良くあり、一体この鐘にどんな意義があるのかはわからなかったが、写真だけは撮っておいた。後で降りてきた夫によると、その鐘はポール・リビアが作った物ということだ。



ポール・リビアの家を出、フリーダムトレイルの赤い線に沿って歩くと、ポール・リビアの銅像が出てきた。有名な「真夜中の疾駆」の姿らしく、勇ましく馬に乗っている。ポール・リビアはイギリス軍が進行してきた時に、月明かりだけを頼りに馬に乗り、サミュエル・アダムスやジョン・ハンコックにそのことを伝えたので有名である。

ボストン・フリーダムトレイルの旅11 フェンネル・ホール & クインシー・マーケット



オールド・サウス集会所から迷子になった私達は、いつの間にか、フェンネル・ホールの前にいた。パフォーマンスを繰り広げる若者の前に集まる人だかりが目を引き、その背後にあるブロック造りの建物がフェンネル・ホールであるのがすぐにわかった。フェンネル・ホールのすぐ隣にあるクインシー・マーケットで昼食にしようと思っていた私は、足が疲れていたこともあって、その登場が嬉しかった。とにかくランチにしよう!おいしいクラムチャウダーを食べよう!夫が彼の母にポストカードを書き、フェンネル・ホールの郵便局から郵送し(ここに郵便局があるとわかっていれば、オールド・サウス集会所から郵便局に行って、迷子になる必要もなかったわけである)、私達は昼食を取る場所を探し始めた。クインシー・マーケットの方に歩いていくと、「Cheers」という、昔テレビドラマになったバーのレプリカのレストランが出現した。夫が俄然興奮しだし、「ここに入ろう!」と言い出したので、そのレストランに入ることにした。寒かったが、ヒーター付きの外のテラスの席に着き、私はもちろんクラムチャウダーを、夫はクラムチャウダーとサラダとビールを頼んだ。クラムチャウダーはおいしかった。ボストンの名物が食べられて、満足であった。

フェンネル・ホールは1階がショップになっているが、2階は会議ができる場所になっているらしい。私は2階に上がることができるのを知らなかったので、素通りしてしまったが、独立戦争時代は、ホール前の銅像にもなっているサミュエル・アダムスらが討論したということだ。私達はランチのあと、レストラン下の土産物屋に行き、上着を着ていなかった夫が、「Cheers」のセーターを購入した。

ボストン・フリーダムトレイルの旅9&10 

とうとう見つけられなかった旧マサチューセッツ州会議事堂と、ボストン虐殺地跡


重ね重ね、無念である。フリーダムトレイル完全制覇を目指していたのに、オールド・サウス集会所を出、迷子になった後、地図を見ながらも思うように起動修正することができず、フリーダムトレイルの10番目のポイント旧マサチューセッツ州会議事堂と、11番目のボストン虐殺地跡を、とうとう見つけることができなかった。ほんの目と鼻の先まで行ったのに、ボストンの曲がりくねった古い町並みは、観光客にとって、容易に旅できる場所ではなさそうだ。

旧マサチューセッツ州会議事堂は、1713年イギリス政府の建物として、その役目をスタートし、マサチューセッツ州会議事堂になったのは、独立戦争後のことである。この建物のバルコニーから、独立宣言がボストン市民に向けて発布された。現在は博物館になっており、地下のワインセラーは、地下鉄の駅になっているという。このことを知っていれば、後で地下鉄に乗ってやってこれたものをと思えど、後の祭である。博物館が出しているホームページがあるので、ぜひとも見ていただきたい。

http://www.bostonhistory.org/?s=osh

この旧マサチューセッツ州会議事堂の前で、「ボストン虐殺事件」が起こった。これは、イギリス人士官が散髪代を支払わなかったという誤解から、ボストン人とイギリス人の間で乱闘が起こり、その結果、ボストン人5人が射殺されたという事件である。この状況を描いたポール・リビアの版画は(他の人が描いた原画を基にして、ポールリビアが版画にした)、アメリカの歴史の教科書に載っているというので、アメリカ人なら誰もが知っている有名な絵なのだろう。しかしこの版画は、必ずしもこの事件を正確に描写しているわけではなく、サミュエル・アダムス等の独立急進派「自由の息子達」が、独立をよびかけるためのプロパガンダに利用したらしい。この事件の跡地を示しているのが、「ボストン虐殺地跡」である。そこには、道にその当時のブロックが残されている。

http://www.bostonhistory.org/?s=osh&p=exhibits

ボストン・フリーダムトレイルの旅8 オールド・サウス集会場



私がこの辺りで勘違いをし、公立学校のモザイクが見つけられず、その結果、この先の「旧マサチューセッツ州会議事堂」と、その建物の前にあるはずの「ボストン虐殺地跡」も見つけられなかったのには、私なりの理由がある。この小さな一角には、「オールド」が付いた場所が多すぎるのだ。ガイドブックにある写真は、どれもブロック造りで、同じように見える。モザイクが見つけられなかった私は、この「オールド」づくめで頭の中がかなり混乱しており、どれがどれだか、わからなかったと言うのが事実だ。しかし、この写真にはしっかり「Old South Meeting House」と書いてある。なので、私達がここに行ったのは、間違いない。

建物の中に入ると、博物館があるらしく、受付でチケットを買わなければならなかった。ここのチケットは5ドルだが、同じフリーダムトレイルにある「ポール・リビアの家」に入るチケットとあわせて買えば、8ドルだと言う。私は「ポール・リビアの家」のチケットも5ドルだと思い(確かにその受付嬢は5ドルだと言った!)、10ドルが8ドルになるならお得だと思ったが、あとでポール・リビアの家に行った時、そのチケットは3ドル50セントだとわかった。

博物館の中は写真撮影禁止だったので、私は写真を撮らなかったが、私が見たアメリカ人のビデオでは、こっそり撮影されていた。彼はそれを「ゲリラ作戦」と呼んでいた。そんな勇気のない私は、ミュージアムの土産物売り場で、ポストカードを買うにとどまった。中は白色で統一されており、中央の演壇前には、長椅子がたくさん置かれていた。この頃の集会場の特徴なのか、各ベンチは、ボックスで囲まれている。今回、フリーダム・トレイルの一つ「オールド・ノース教会」の中にも入ったが、そこも同じように、一つ一つのベンチがボックスで囲まれており、ちょっとした個室気分なのである。

私達が中に入った時、小学生を相手に、講義が行われていた。説明していた若い女性によると、ここでは大きな声で話した者勝ちだったらしく、その光景を再現するのに、小学生達に大きな声で叫ばしていた。このデモンストレーションは、毎回行われるらしい。ここでは愛国者達が、イギリス政府に反逆するための会議が行われ、その中の一つが「ボストン茶会事件」に発展した。ということは、アメリカ独立のための話し合いが行われた、歴史的に大変重要な場所だ。その当時のアメリカ国民は、イギリス政府がかけた高い税金に苦しみ、税金を払わなければ、仕事ができないなど、重い刑罰が科せられたのである。こうしてアメリカ建国の歴史を学ぶにつれ、独立するのはどれだけ大変なことだったのだろうと思う。アメリカがかつて植民地で、他国からの支配に苦しんだなどというのは、今の私達の生活からは想像もできないが、この頃の人たちが行った努力を忘れてはならないと思う。

この集会場は一階が博物館になっており、地下に土産物屋がある。私はこのショップでポストカードを買ったが、レジをしていた女性が、「郵便局をお捜しですか?」と言う。私はそのポストカードは自分用にと考えていたのだが、他の手紙を出さなければならなかったのは事実だった。

「郵便局は、そのドアを出た所にあります。その近くにベンジャミン・フランクリンが生まれた場所もあるので、行ってみてはいかがですか?」

彼女のアドバイスに従い、カンザスシティーから持ってきた手紙を郵便局で投函し、さて、ベンジャミン・フランクリンの生家を探そうとした。しかし良くわからない。更に困ったことに、建物の正面玄関からでたわけではないので、フリーダムトレイルの赤い線が引かれていない。しかし、私達が出てきた集会所の裏側のドアから、また中に入ることができない。そうである。私達はここで、迷子になったのである。

ボストン・フリーダムトレイルの旅7 オールドコーナー書店



 この建物は昔、「オールド・コーナー・ブックストア」という名で、有名な著者の本を数多く出版したらしい。その有名な著者達には、「エマソン」、「ソロー」、「ストー夫人」など、「アメリカ文学」の代表的な人たちが含まれているので、彼らの本を読んでいる私は、訪れるのを楽しみにしていた。しかしこの建物は、宝石店になっていた!大変残念である。せめて、本屋であって欲しかった。このオールド・コーナー書店は、ベンジャミン・フランクリンの銅像がある旧市役所のすぐ近くにある。

 この建物の前に若者が集まる広場があり、なにやら音楽が奏でられていた。後で調べたところ、ここにある銅像は、19世紀の中ごろ起こったアイルランドのポテト飢饉で、アメリカに入植したアイルランド人らしい。私の夫はアイルランド人の血を引いているので、そうと知っていれば、写真の1枚でも撮っていたのだが、その時は、フリーダムトレイルに含まれていないその場所を、無視する事にした。その時はまだ、最初の公立学校跡のモザイクを捜していたので、正直言って、その人だかりが少々鬱陶しいと思ったほどである。それにしても、あのモザイクはいったい、どこにあったのだろう。

ボストン・フリーダムトレイルの旅6 ベンジャミン・フランクリンの銅像



私の勘違いが始まったのは、このあたりからである。私が持ち歩いたインターネットのコピーには、キングス・チャペル墓地の後のフリーダムトレイルのスポットは、「First Public School(最初の公立学校)」となっている。「ベンジャミン・フランクリンも通ったアメリカで最初の公立学校の跡地を示すため、歩道にモザイクが残してある」と書かれている。私もこのモザイクを、アメリカ人が撮影したフリーダムトレイルのビデオの中で見ている。ビデオを撮影した本人も、これをフリーダムトレイルの一つとして紹介していたと思う。なので当然、私はこのモザイクを捜していた。しかし、スクール・ストリートに入るとすぐに「Old City Hall」というサインが見え、なんだか、フリーダムトレイルらしい名前で、これもフリーダムトレイルの一部なのかと、私は俄然興奮しだした。その奥には、ビデオでも見たベンジャミン・フランクリンの銅像が立っている。モザイクのことが気になりながらも、吸い込まれるようにこの「ボストン旧市役所」に入った私は、夢中でカメラのシャッターを切った。フランス式のとても美しい建物である。私のテンションが上がったのも無理はない。しかし、フリーダムトレイルの6番目のスポットは、どうやら「ベンジャミン・フランクリンの銅像」らしい。いや私としてはやはりモザイクの方がオリジナリティーがあり、こっちを本式とすべきだと思うのだが、私はとうとうこのモザイクを発見せずに終わってしまった。なんと言う屈辱か!フリーダムトレイル完全制覇を目指していた私には、大変無念でならない。



夫は、旧市役所の中に入り、壁に書かれた大きな説明を読み出した。そこには、「ボストン公立ラテン学校」と書かれている。つまり、この旧市役所は、アメリカ初の公立学校跡地の一部に立てられているらしいのだ。この学校は1635年に設立され、無料であった。この近所で生まれたベンジャミン・フランクリンも、退学になるまではこの学校に通っていた。ベンジャミン・フランクリンは、アメリカ建国に貢献した「建国の父」の一人で、政治活動の他にも、発明や本、新聞の出版など、多分野において才能を発揮した。彼の肖像画は、アメリカの100ドル札にもなっている。私は「アメリカ文学」の授業で、彼が書いた「フランクリン自伝」や「富に至る道」を読んだ。大変面白い本で、日本語にも訳されているので(実は私は、日本に帰った時に翻訳書を購入し、アメリカ文学の授業を乗り越えた!)、読むのをお勧めする。入口から奥には行かなかったが、旧ボストン市役所は、中にステーキハウスが入っているらしい。

ボストン・フリーダムトレイルの旅5 キングス・チャペル、及びキングスチャペル墓地



オリジナルの建物が建てられた1688年当時、キングス・チャペルはイギリス人を対象にした英国国教会としてスタートした。地元人たちは、清教徒にしか土地を売らなかったため、この教会は、公共の場所に建てられたという。後に18世紀になって老朽化が進み、1749年に修復作業が始まり、現在の石造りの立派な建物になった。現在も使われている鐘は、1772年にイギリスから運ばれたが、ヒビが入り、1816年ポール・リビアによって修復される。最初は英国国教会としてスタートした教会であるが、後にプロテスタントの一派であるユニタリアン派になった。しかし儀式自体は英国国教会式というユニークなミサをするらしい。

こういった歴史的な背景は、カンザスシティーに戻り、ガイドブックやインターネットで学んだもので、私達がフリーダムトレイルを歩いている時は、「これから先はまだ長い」とし、写真を撮っただけで、急いで次のスポットへと移動した。


キングスチャペル墓地




ボストンで最も古いこの墓地は、キングス・チャペルのすぐ隣にある。ここにはあまり観光客がいなかった。ここも写真を一枚撮るだけで済まし、私達は足早に去った。

ボストン・フリーダムトレイルの旅4 グラナリー墓地



パークストリート教会のすぐ隣にあるこの小さな墓地は、たくさんの観光客で賑わっていた。ここには、アメリカでも歴史的に有名な人たちが多く眠っているので、私の夫も、知っている有名人を探そうと、懸命になる。こういう風に、アメリカの歴史になると、さすがにアメリカ人の夫は私より良く知っており、こういった根本的な違いを見る時、私は夫がアメリカ人だなと思うのである。

墓地内に入ると、「フランクリン」と書かれた大きな碑がまず目に入る。「フランクリン」と言えば、ベンジャミン・フランクリンかと大きく期待するが、墓碑にある説明書には、ベンジャミン・フランクリンの名が無い。少々がっかりし、それならなぜこんなに大きな碑があるのか不思議であったが、この「フランクリン家の墓」には、ベンジャミン・フランクリンの両親が眠っているらしい。ベンジャミン・フランクリンは、フィラデルフィア出身と勘違いされる場合が多いのだが、実はボストンで生まれているのである。

この墓地には、独立宣言にサインをした「ジョン・ハンコック」、「サミュエル・アダムス」、「ロバート・トゥリート・ペイン」の他に、「真夜中の騎行」で、イギリス軍の到着をアメリカ軍に知らせた「ポール・リビア」と、ボストン虐殺事件の犠牲者が眠っている。



   ポール・リビアの墓        サミュエル・アダムスの墓

ボストン・フリーダムトレイルの旅3 パークストリート教会



マサチューセッツ州会議事堂をあとにし、パークストリートを下ると、交差点の角に、パークストリート教会がある。この教会は、1829年、William Lloyd Garrison が奴隷制を非難するスピーチを行った。奴隷制度を公の場で非難するのは、この時が初めてだったという。そのような歴史的に意義深い場所ならと、写真を数枚撮った。現在のパークストリート教会は、たくさんの車が行き交う信号前にあるので、写真を撮るのはかなり大変である。 

今回フリーダムトレイルを旅するに当たり、アメリカ人が良く口にする「フリーダム」つまり「自由」について考えさせられた。現在のアメリカでは、この自由という言葉は誤用される場合が多々あると、私は常日頃思っているのだが、フリーダムトレイルの史跡を巡り、その歴史を学ぶにつれ、その根本的な意義を、少し感じ取れたと思うのだ。独立以前のアメリカは、イギリスの植民地であった。重税がかけられ、税金を支払わなければ、重い刑罰が与えられる。当時のアメリカ国民が叫んだ「自由」とは、その圧制から開放されるための「自由」であった。Garrisonが非難した奴隷制とは、人間が人間を売り買いし、家畜のように所有した悪政である。その束縛からの「自由」である。この一言には、どれだけの重みがあるのだろう。そんなことを考えながら、あの手すりがある窓からスピーチがされたのだろうかと、写真を撮った。

ボストン・フリーダムトレイルの旅2 マサチューセッツ州会議事堂



私はボストンに来る前、フリーダム・トレイルを実際に歩いたアメリカ人が撮ったビデオを、インターネットで見ていた。赤い線が引いてあるとは言え、ガイドも無しに初めて行く場所を歩くのに、このビデオは大変役に立った。ビデオで見覚えのある建物を、夫よりもいち早く見つけられたからである。インターネットからコピーした、フリーダム・トレイルの各名所の簡単な説明書を手に、「あれが、マサチューセッツ州会議事堂よ!」と、大きな金色のドームを被ったレンガ造りの建物を指差した。現役の州会議事堂でありながら、一般公開されているのを知っていたので、私達はその建物の中に入ってみることにした。



建物の中に入るには、もちろんセキュリティーチェックを通過しなければならない。今時、アメリカの公共施設に入るのにセキュリティーチェックを受けなくてもよい場所などない。私達が入った入口は、どうやら観光コースとは少し外れた場所にあったらしく、しばらく迷いながら、上の階の一般公開されている場所に行く。迷った結果、私達は最初に「Hall of Flags」という部屋を見学する。この部屋の天井には、大きな丸いステンドグラスが付いた天窓があり、時代の重みを感じた。ステンドグラスの下の壁は、独立戦争などを描いた絵画で囲まれていた。その下の方には、現在のイラク戦争で亡くなった戦士達の写真が飾られていた。夫はこの部屋の様子をビデオに収めていた。大変美しい上に、厳かな、神聖な気分になる部屋だった。



この写真は、「Nerses Hall」である。こうしてこの部分だけ写真にして見ると、なんだかギリシア神殿のようである。写真下にある像は、アメリカ革命時代に戦士達を手当てした看護婦達を称えて作られたらしく、この部屋はこの像にちなんで名づけられた。

ボストン・フリーダムトレイルの旅1 ボストン・コモン



2009年6月10日


ボストンコモンは都会の街中にある、意外と小さな公園だった。いや公園全体を見たわけではないので、こう断定するのはボストンの人たちに失礼かもしれないが、中西部の広々とした風景に慣れている私の目には、どうにも小さく見える。平日であるのにもかかわらず、たくさんの観光客や、小学生の団体や、地元の買い物客が、信号がパカパカ点滅する交差点を行き来したり、地下鉄の出口から噴き出したりしていたせいかもしれない。公園内では、若い男性軍が、体育会系クラブの練習なのか、映画で良く見る海軍の練習風景のような訓練をしていた。このボストンコモンは、イギリス兵の駐屯所だったらしいので、このような連想をしたのかもしれない。



ボストンコモンのインフォメーションセンターの前には、清教徒の格好をしたツアーガイドが、観光客に話しかけていた。公園の階段を昇り、ビーコンストリートに行くと、観光バスの前に、これもピューリタンの女性の衣装を着たガイドがいた。彼女の客達らしい一群の向こうには、ガイドブックで見た大きなレリーフがある。このレリーフは、「シャウ・メモリアル」という。ガイドブックによると、南北戦争時代の北軍で最初の自由民黒人連隊と、それを率いる白人の指揮官Robert Shawを描いているらしい。このレリーフ前は、ボストンのもう一つの観光コースである黒人の歴史を見るコースの出発点にもなっている。またボストンを訪れる機会があれば、ぜひこの黒人歴史コースを探索してみたい。

2010年4月11日日曜日

ボストン・フリーダムトレイルの旅



フリーダム・トレイルとは、ボストンのダウンタウン方面にある、歴史的な16の建造物を、赤い線で結んだものである。観光客は、この赤い線を辿っていけば、簡単にボストンの観光ができると言う狙いである。全コースはおよそ4キロほど。このフリーダム・トレイルを、夫と私は徒歩で全て制覇することに挑戦した。


1. ボストン・コモン

2. マサチューセッツ州会議事堂

3. パークストリート教会

4. グラナリー墓地

5. キングス・チャペルとキングス・チャペル墓地

6. ベンジャミン・フランクリンの銅像/ボストン・ラテン学校(最初の公立学校)

7. オールド・コーナー書店

8. オールド・サウス集会所

9. 旧マサチューセッツ州会議事堂

10 ボストン虐殺地跡

11. フェンネル・ホール

12. ポール・リビアの家

13. オールド・ノース教会

14. コップスヒル墓地

15. USS コンスティチューション号

16. バンカーヒル記念塔

途中、道に迷い、9番目の旧マサチューセッツ州会議事堂と、10番目のボストン虐殺地跡を見つけられなかったことが、大変残念でならない。しかし、その近くまで行っており、全体的にフリーダム・トレイルを全て歩ききったと言って良いと思う。

それにしても、世の中には、親切な人がいるものだ。今回の旅では、見ず知らずの人に助けられることが多かった。私達が困っていたり、とんでもない方向に行こうとしたりすると、声をかけてくれる地元の人が、どこからともなく現れるのである。彼らは、私達を次の目的地まで誘導したり、間違った方向を正したりする。私達が泊まったホテルは、ハーバード大学があるケンブリッジに位置する。ホテルマンから前日聞いたバス停に行くものの、地下鉄のハーバード駅に行くには、道のどちら側に立てば良いのかわからない。ちょうどバス停で待っている人たちがいるので、「地下鉄に乗るには、道のどちら側で待てば良いのか」と聞くと、「ここで待てば良い」という答えが返ってきた。しばらくするとやって来たバスに乗り込んだ私達は、次はどこで降りればいいのかわからない。ホテルで貰った地図を片手に夫と話し合っていると、「私もハーバード駅から地下鉄に乗りますから、行く場所を教えましょうか?」と声をかけてきた若い女性が現れた。彼女の勧めで、ボストン近郊の地下鉄とバスで使える一日券を購入し、フリーダム・トレイル出発地「ボストンコモン」の最寄り駅に行く。この女性が現れなければ、ボストンコモンに行くのに、どの駅で降りればいいのか、私達は知らなかったのである。彼女は、彼女の降りる駅ではないのに、わざわざ車両から降りて、ボストンコモンに行く出口を指し示してくれた。アメリカ人には、このようにボランティア精神旺盛な人が多い。今回の旅は、こうした人の温かさに感謝できる、ありがたい経験であった。

それでは次ページから、フリーダムトレイルの各所を、細かく説明したいと思う。

パスポート入手!シカゴの街を歩く




2009年6月9日

アムトラックでセント・ルイスからシカゴに午後8時過ぎに着いた私達は、長旅のため、かなり疲れていた。ここから重い荷物を持って、地下鉄駅を捜し、空港近くまで行かなければならない。夫がインターネットで予約したホテルは、オヘラ空港の近くにある「Extended Stay America Hotel」だった。シカゴ市内はホテルが高いので、少し郊外でと考えたら、このホテルにたどり着いた。インターネットの宿泊経験者の意見によると、なかなか快適なホテルらしい。しかし、このホテルの電話番号を持っていなかった私達は、空港からホテルまで、どうやって行けるかわからなかった。たぶんシャトルバスがあるだろうと期待していたのだが、番号案内で調べた電話番号にかけてみても、誰も出ない。ホテルなのに誰も出ないとは、どういったことなのだろうか。疲れた私達には、この不便さに、ずいぶんいらいらした。空港で働く人に、とにかくシャトルバスが出ている場所に案内してもらう。翌日は、日本領事館に行き、その後、次の飛行機の時間まで市内観光をしようとしていた私達は、荷物を預けられるロッカーが空港にあることを期待していた。それを案内係に聞いてみると、「9・11以来、空港にロッカーは無いんだよ」と言われた。なるほど、それなら仕方がない、早めに飛行機のチェックインができることを、祈るしかない。

シャトルバス乗り場に行くが、私達のホテルのシャトルバスは、なかなか来ない。その辺りをぐるぐる回ることをしばらく続けたが、夫は他のホテルの運転手に、私達のホテルのシャトルバスがあるか、聞いてみた。彼は、「いつも来ているが、もしかしたら、もう今日の便は終了しているのかもしれない」と言い、親切なことに、わざわざ彼の携帯で、ホテルに電話をかけてくれた。彼の言うとおり、今日のバスはすでに終了していると言うことだった。途方にくれる私達に、「うちのホテルのすぐ近くだから、連れて行ってあげるよ」と、他の客がいないのに私達を乗せて、彼のバンを運転し始める。彼はシカゴ出身のラテン系アメリカ人だった。このような人が話す英語は「チカノ・イングリッシュ」と呼ばれる。Chicanoは、スペイン語を話す両親を持つアメリカで生まれた人たちのことである。スペイン語なまりがある英語を聞き生まれ育った人たちは、それを母国語として言語を習得し始める。なので、私が普段聞いている英語とは、かなり違う。チカノ・イングリッシュを普段聞くことが無い私にとって、それはとても興味深く、大学で取った言語学の授業や、その講義をした言語学の教授をふっと思い出したりした。その親切な運転手に、チップとして6ドル渡し、私達はホテルの中に入った。

小さいながらも綺麗なカウンターでチェックインする。そこで働く受付の女性は、たぶんメキシコ人であろう、少しアクセントがある英語を話した。空港で電話をした時、誰も出なかったのはなぜなのだろう、不思議に思ったが、翌日の夫の話によると、あの電話案内でもらった電話番号は、全く間違いで、どこかの事務所の物だったようだ。メッセージを残した夫の携帯に翌日、その事務所から電話がかかった。なんと、無責任な電話案内か。いい加減な仕事振りに、少々頭に来た。

ホテルの部屋は、インターネットの評判通り、なかなか良かった。入口には小さなキッチンが付いており、自分で料理することができる。自宅から持ってきたおにぎりと、そのほか残っている食べ物を、全て冷蔵庫の中に入れる。コーヒーメーカーも付いているので、これでコーヒーやお茶を入れることもできる。しかし、疲れていた私達は、しばらくテレビを見た後、すぐに眠りについた。

翌日、予約したシャトルバスの時間に少し遅れながらも、あわてて空港行きのバスに乗る。シャトルバスの中には、もう一人他の客が乗っていた。空港に着き、カウンターに行こうとするが、私達の航空会社Air Tranが無い。また、空港の人に聞いてみると、「それはMidway空港じゃないのか?」と言われる。なんともまあ、知識不足もいい所で、私達はシカゴに2つ空港があることを知らず、(考えてみれば、アメリカの大都市に2つ空港があるのは当たり前で、カンザスシティーにさえ2つある)間違った空港に来ていたのだ。これが搭乗時間直前でなくて良かった。オへラ空港にロッカーなど無くて良かった。またまた仕方がないので、とりあえず、日本領事館があるダウンタウン方面まで、重い荷物を持ち、地下鉄に乗る。地下鉄と言っても、途中までは外を走る。こういう風に公共の移動手段を使う段になると、日本生まれの私の知識と経験は、大変役にたつ。私は予め、インターネットで地下鉄の電車の地図をコピーしていたので、日本領事館への行きかたは、わかっていた。普段カンザスシティー周辺をドライブする時は、夫に頼りっきりの私だが、都会方面では、バスや電車に乗る日本の生活を知っている私がリードをした。

乗り継ぎをし、地図を頼りに歩きながら、日本領事館があるビルに辿り着く。そこはシカゴの目抜き通りの一つ「マグニフィシェント・アベニュー」のすぐ近くだった。エレベーターに乗り、領事館に行く。扉を開けると、一様、セキュリティーチェックを受けねばならないようになっていた。鞄をX線に通し、ゲートをくぐる。そして親切なアメリカ人のガードマンが、ばい菌を殺菌するジェルを提供してくれた。さすが日本のオフィスは、やることが細かい。昨今の「Swine Flu」を配慮して、ばい菌を撒き散らして欲しくないのかもしれない。このガードマン、お父さんが米軍基地で働いていたらしく、ドイツに住んでいた頃、エルビス・プレスリーを訓練したらしい。エルビスと彼が一緒に映った写真は、銀行の金庫に保管してあると言う。

パスポートは、簡単に受け取ることができた。新しいパスポートには、旧姓の後ろに(Durbin)と、現在の名前が加えられている。結婚生活も3年近く経つので、Durbinの名が私の名前として定着しているのだが、日本の戸籍名を変えていないので、このような形になるのは仕方がない。しかし、これで一人で海外旅行をする時でも、名前の件で問題になったりはしないだろう。

この後、シカゴの街を観光したかったので、領事館の方に「この辺で、荷物を預かってくれる場所はありますか?」と聞いてみた。私としては、こういう風に聞けば、きっと預かってくれるに違いないと思ったからだ。案の定、親切な領事館員は、次の間に私達を通しいれ、荷物を預かってくれた。夫は、「日本人は親切だね」と喜んだ。こういう時の夫は要領を良く心得ていて、「アリガトゴザイマ~ス」と、片言の日本語で、かわいくお礼を言う。領事館の方も、笑っていた。


さて、身軽になった私達は、早速シカゴ観光に出る。実は、私達夫婦は2年前、シカゴに一緒に来たことがあった。なので、その時に歩いたコースとは違う所を歩きたかった。幸い領事館があるマグニフィシェントアベニューは、以前歩いていない上に、観光スポットも多い。そこで、ガイドブックを頼りに、その近辺を歩く。まず、最初にシカゴで最も古い建物「ウォータータワー」の写真を撮る。このタワーは、1871年に起こったシカゴの大火事から残った、唯一の建物らしい。周りの近代的な高層ビルの中にマッチしながら、昔の面影を残していた。その後、近くにあったMacy'sに入り、洋服を見た後、フードコートでピザを食べる。シカゴで食べたい物の一つが、「シカゴピザ」だった。私が食べたピザは、シカゴの典型的なピザではなかったが、パイナップル入りのピザは、驚くほどおいしかった。パイ生地がさくさくしていて、パイナップルの甘さが絶妙なコンビネーションだった。デパートのフードコートにあるピザ屋だったので、あまり期待もしていなかっただけに、このピザの発見は、嬉しい物だった。



この後、シカゴで2番目に高いビル「John Hancock Center」に行く。このページの一番上の写真がそれである。この高層ビルは展望台があり、曇り空のため最上階は視界ゼロであるが、途中の階では何とか外を見ることができるというので、そちらの方に行ってみることにした。エレベーターに登る前に、写真を撮るスタジオがある。そこで、カメラマンの言葉にのせられ、私達は記念写真を撮った。もちろんこういう写真は、お金を払わなければならない。この写真は上の展望台で受け取った。














 展望台では、各自で聞ける音声ガイドをつけて、シカゴの街を見下ろすことができる。日本語があったので、私は日本語でこの音声ガイドを聞いた。今回シカゴにいる時間はかなり短かったので、このようにまとめてシカゴが見れるのは良いと思った。
















左の写真は、北方面にあるビーチである。右の写真は、ネイビーピア方面。



展望台を出た後は、John Hancock Center 前にあるテーブルに着き、写真を撮った。この場所は、ガイドブックに載っていたので、ぜひとも写真を撮りたいと思っていた場所だったのだ。少々、良い気分であった。



あまりお腹が空いていたわけではないが、せっかくシカゴまで来たのだから、有名な「シカゴホットドック」なるものも食べてみたい。そこで展望台にいた案内人から聞いたシカゴで有名なホットドック屋を目指し、しばらく歩くが良くわからなかった。そこで、また道の途中で出会った男性に、「あそこはどう?」と指し示されたホットドック屋に行く。シカゴホットドックの特徴は、ポピーシード付きのパンに、大きなピクルスとトマトを入れ、ケチャップ無しということらしい。初めて食べるシカゴのホットドックは、なかなかおいしかった。寒かったが、せっかくなので外のテーブルで、震えながら食べた。















この後、領事館に戻り、荷物を受け取り、日本の選挙の投票の登録ができるというので、せっかくならと、時間の無い中、登録しておいた。その後、急いで地下鉄の駅に行く。ついでにシカゴの街の様子を紹介するため、この前後に取った写真をご紹介。







地下鉄の電車に乗り、次の乗り継ぎの話しをしていると、私達に声をかけてきた女性が現れた。何でも私が言っていた駅で乗り継ぎをすると、ダウンタウン周辺の「ループ」に入ってしまい、東京の山手線のようにダウンタウンを一巡するらしい。なのでその駅で乗り換えると、遠回りになってしまうので、2つほど先の駅で乗り換えた方がいいと言うのである。飛行機の時間が迫っていた私達にとって、このアドバイスは、大変ありがたいものだった。というのは、Midway 空港のAir Tranのカウンターに着いた時、受付係に「あと2分で荷物の預かりを締め切るところだった」と言われたのだ。もしこの時、あの女性がアドバイスしてくれなかったら、私達は、飛行機の時間に間に合わなかっただろう。今回の旅では、こうしてその土地で出会った人たちに助けられることが、多かった。知らない土地で、知らない人に助けられるのは、なんとありがたいことだろうと、感謝せずにはいられなかった。こうして、いつも時間にぎりぎりでありながら、私達は、ボストンに向かった。