2011年12月27日火曜日

ミズーリ州インディペンデンスの旅2:Chicago & Alton Depot



 ベイルマンションを見学した私達は、その後、「刑務所」を探していた。19世紀の刑務所がインディペンデンス市に保存されており、その時の様子を学べるという。しかし、その刑務所を探して街中をウロウロしている間に、上の写真の建物を発見した。それは、インディペンデンス市観光局のホームページに載っていた、観光スポットの一つだ。どうせなら、ここで少々写真を取らせてもらおうと、車を降りて、建物の中に入ることにした。

 重いドアを叩いて、中に入ってみる。初めは無人の建物かと思い、本当に、写真を一、二枚取るだけのつもりだったのだが、中には、初老の男性ガイドが居た。随分、慇懃に私達夫婦を招きいれてくれて、ベンチに座るよう勧めてくれる。それで、「少々、ご説明いたしましょうか?」というガイドに、「どうぞ、お願いします」と言うと、それからなんと2時間のツアーが始まるのである。



 「シカゴ・アンド・アルトン」とは、イリノイ州アルトンから発した鉄道会社の最終社名。設立されたのは、1847年だが、最初の列車がアルトン市内を走ったのは、1850年だったようだ。その当時の社名は、「Alton & Sangamon Rairoad」。その後、何度か社名を変え、最終的には、「シカゴ&アルトン」という名になり、路線も、シカゴからセントルイス、そしてカンザスシティーまで延びていたらしい。

(その当時の鉄道マップを見たい方は、下のウェッブサイトをご参照ください。)
http://www.chicagoalton1879depot.org/route.html

しかし「シカゴ&アルトン鉄道」は、1931年、他社に買収される。このインディペンデンスにある「デポ」は、1879年に建てられたシカゴ&アルトン鉄道の駅だった建物で、1996年に現在地に移された。1879年に建てられたといっても、現在の建物は、大々的に修復されており、ペンキが塗られ、随分新しく見える。しかし駅が見捨てられた当時は、荒れ果てた様子だったらしい。

 ブラッド・ピット主演映画、「ジェシー・ジェームスの暗殺」のジェシー・ジェームスは、この「シカゴ&アルトン鉄道」の「グランビュー駅」付近で、何度か強盗を果たし、その付近は危ないと悪評が高くなったため、グランビュー駅は名前を変えなければならなかったという。確かに、ジェシー・ジェームスは、ミズーリ州出身で、私達が住むカンザスシティの北に、彼の生家があり、現在は博物館になっている。なので、この付近で、彼が強盗を働いていたというのは、納得がいく歴史だと思った。

最初に入った場所は、上の写真のような、駅の待合室だった所で、ここからツアーは始まった。




上の写真にあるポスターが、待合室に飾られている。何でも、この男性ガイドが、ガレージセールで見つけたらしいのだが、これが「シカゴ&アルトン鉄道」の広告だったらしい。優雅に女性が座っている椅子、実はアルトン&シカゴ鉄道の路線図を表している。この女性、実在した女性で、有名な女優だったらしい。ポスターの下にある写真が、モデルとなった女性だ。




 待合室から一歩入ると、そこは駅長室だった。ガイドの話を聞いていると、どうやら、この建物の中にあるものの殆どは、彼自身が収集したか、誰かが寄付したものらしい。ということは、彼が、この小さな博物館を創設した人物と言っても良いのではないかと、ツアーを聞きながら思った。道理で、説明の熱の入り方が違う。駅長室には、机の上に、整理棚があり、それは元々、この駅に属するものでは無いが、彼が誰かから買ったと言っていた。上の写真は、モールス信号を発する装置。確かこれは、この駅に属する物だと思う。 




 私が個人的に一番感動したのが、この電話。この近辺で、当時電話があったのが、確か12軒だか、22軒だか、とにかく極限られた数だけだったとガイドは言っていた。その中の一つがこの駅の電話だ。極僅かな電話所有地の一つが、「サロン」だったというから、当時の生活がわかるようだと、彼は言っていた。私が個人的に電話に感動したのは、「電話が一般人に普及したのは、いつ頃なのか?」という疑問をずっと持っていたから。これまた、話は過去の旅行に遡るのだが、ルイジアナ州のプランテーション「ローラ」のオーナー、ローラが書いた本には、たまに、"she called her"といった表現が出てくる。現在なら、「彼女に電話した」と訳せようが、19世紀のルイジアナで、いくらお金持ちとは言え、電話があったのだろうかと、ずっと長い間、沸々と自分の中で、考えていたことだった。"She called her"とは、「電話した」のか、それとも誰かメッセンジャーが居て、その使いを送り出したという意味なのかと、真剣に考えていたのだ。しかし、1879年に建てられたこの駅の近辺に、電話を所有している建物が僅か数軒しかなかったとしたら、19世紀のルイジアナのプランテーションで、電話が普及していたとは、考えられない。なので、私の中では、「電話は存在しなかった」と、勝手に結論付けた。その結論(事実の程は知らないが)に到達させたのが、この電話だ。




こちらもとても感動したのだが、なんとエジソンが発明した電池である。「エジソン・アルカリ電池」と呼ばれていたらしい。こうしてみると、「駅」は、当時の最先端のテクノロジーが集結した場所だったのではないだろうか。


 
 この駅舎の中には、色が付いたランプが沢山あった。現在の信号と同じで、青が進め、黄色が注意、赤が止まれで、鉄道員が、ランプを持って運転手に知らせていたと言う。

 二階は、駅長の家族が住んでいた場所だった。駅長と言っても雇われ人で、契約を結んで働いていたらしい。そこは、ガイドが収集した当時の家具が沢山あった。最初に入った部屋はキッチンで、そこには、この前に行った「ベイルマンション」にもあった、氷を入れて冷やす木製ドアの冷蔵庫があった。何でもこの当時は今と全く違い、ドアの鍵はかかっておらず、牛乳や氷の配達人は、人が居なくても、客の家のキッチンに入り、冷蔵庫に配達物を入れて、後に集金に行ったらしい。現在のアメリカからは考えられないが、そういった「人を信用できる時代」というのは、とても良いものだと思った。

実は、このツアーの途中、小柄な老齢の女性二人が、私達のツアーに加わった。彼女達にすると、そこにある物は、どうやら、珍しい物ではなく、「昔家にあった物」だったらしく、私が、「わ~、レトロ!」と感動したキッチン用具や小麦粉のパッケージ等(日本のアンティークコレクターなら、絶対に狂喜乱舞するような代物!)を、「知っていることが、少々恥ずかしい」といったような、微かな笑いが彼女達からもれているのに気付いた。大きなキッチンストーブ(コンロ)の上に、棚があった。そこに古いポットがあり、豆のスープ等を温めて保存するのに、使われていたということだ。こういう古いキッチン道具を見ると、現在のアメリカのキッチン用品が、どうしてそのようになったのかが解り、私にとって、大変興味深いものだった。なので、その老女達が「恥ずかしそうに笑う必要など無いのに」と、私は思った。

 キッチンの隣にはダイニングルームがあり、その奥にベッドルームがある。ベッドの両脇には、大きな「夫」の写真が右側に、「妻」の写真が左側にあった。その写真はこの駅舎に住んでいた人々ではないのだが、その当時、写真をこうやって飾るのが習慣だったので、飾ってあるという。この駅舎の二階は、駅そのものに属するものでは無いが、その当時の習慣を説明するのに役立つ品々で溢れていた。その中で私が驚いたのは、特別な「眼鏡」だった。その眼鏡をかけて写真を見ると、「3D」のように、遠近感があるように見えるのだ。こんな昔に、3D眼鏡が既に発明されていたなんて、随分驚きだった。

 二階の一番奥の部屋には、鉄道に関する品々が展示されていた。左の絵の中の人物が何をしているのかというと、鉄道から下された荷物を受け取っているのだ。これもルイジアナのプランテーションオーナー、ローラが書いた本に、このような場面が出てくる。彼女が言っていたのは、船から降ろされる手紙の事だったのだが、このように書いている。

「電報など無い当時、ニュースが届くのは本当に遅く、長い釣竿で陸地に渡された手紙を、黒人か配達人が拾いにやって来るといった状況だったのだ。」

これと全く同じように、鉄道でも、配達物を長い鉄の棒に引っ掛けて、下に降ろす。その作業に使った棒も、この博物館には残っていて、私は、「ローラが言ったことは、本当だったんだ」と、随分感動した。多分、ここを訪れる観光客で、この黒い古びた鉄棒に、これほど感動する人は、きっといないだろうと思うほど、私は感動した。



 私は古い人物写真が好きだ。過去のドラマが凝縮された一瞬。そんな写真が、この博物館の壁にあった。鉄道を実際に建設した人々。




 リンカーン大統領は、ワシントンDCで暗殺された後、彼が州知事を勤めたイリノイ州スプリングフィールドに埋葬された。彼の遺体を運ぶのに、「シカゴ&アルトン鉄道」が使われたらしいのだが、列車の車両が鉄道の線路より大きかった為、リンカーン大統領輸送の為だけに、線路のサイズを直したという。随分、ご苦労なことだと思った。

 最初、この小さな博物館にガイドがいることすら期待していなかったのだが、私が興味を持っている時代に関する情報が凝縮していたので、私にとっては、随分実りの多いツアーとなった。

2011年12月19日月曜日

ミズーリ州インディペンデンスの旅1:The Vaile Mansion



 カンザスシティーのすぐ隣に、インディペンデンスという市があり、その歴史指定地区の一画に、「ベイルマンション」という、お城のような豪邸がある。クリスマスが近くなったこの季節、豪邸内は、近所のボランティアによってクリスマスツリーやライトが、特別に飾られるというので、クリスマス1週間前の日曜日、夫と一緒に、"The Vaile"を訪れた。


 この「ベイルマンション」は、Harvey Vaileという人が1881年に建てた、31部屋、9つの暖炉に水洗トイレをも所有するビクトリア様式の豪邸である。ベイル氏がこのような豪邸を建てられたのは、「Star Mail」というサンタフェまでの郵便システムを経営し、巨額の富を創り上げたからだろう。しかしベイル氏は、詐欺の疑いで訴えられ、それを苦にした彼の妻が、モルヒネを大量摂取し、自殺したという噂がある。こういう逸話があるアメリカの古い家は、「幽霊に取り付かれている」と必ず言われるものだが、この家も、3階に夫人の幽霊が出るという噂があるらしい。幽霊談が本当かどうかはわからないが、確かに3階は立ち入り禁止になっており、一般公開されていない。



 玄関を入ると、既に沢山の観光客がおり、入口で大人1人6ドルのチケットを2枚購入する。どうやら、ガイド付きのツアーがあるようだ。私と夫の他に15人ほどの観光客を連れて、そのツアーは開始された。天井は高く、最初に入った間に、大きなクリスマスツリーが堂々とあった。この豪邸の至る所にクリスマスツリーが飾られていて、クリスマス気分が盛り上がるというものだ。






家の中の豪華な家具にも目が行く。大きな鏡付きの大理石の暖炉など、これだけ大きな豪邸だからこそ映えるというものだ。



 下の写真の代物、何かおわかりだろうか?



 なんと、その当時の冷蔵庫なのである!上の真ん中にある穴に氷を入れ、内部を冷やしたらしい。この手の冷蔵庫は、結構長い間使われていたらしく、この後行った他の博物館にも、このような冷蔵庫があり、多分60代のノースダコタ州出身の男性ガイドが、「自分が生まれ育ったのは農園で、子供の時は、まだこのような冷蔵庫を使っていた」と証言していた。



 上の写真は、料理用のコンロ。英語で「キッチンストーブ」とか「クックストーブ」とコンロのことを言うが、確かにこの頃のコンロは、ストーブのような形をしていると思った。



 情熱的な赤に花の刺繍が美しい、19世紀の貴婦人のドレスである。これが、ベイル夫人のものなのかは、写真を撮るのに夢中で、あまり今回のガイドの話を聞いてい無かった私には、良くわからないのだが、それにしても、美しい衣装で、惚れ惚れしながら写真を撮った。袖の裾のレースは、その当時の流行だったのだと思う。2年前に行ったルイジアナのプランテーション「ローラ」の家族の一人、ローラの母が、このように、裾広がりのレースの衣装を着ている写真がある。スカートのプリーツが素敵だと、つくづく思う。



 高い天井の上から垂れ下がった長いピンクのカーテンが、お金持ちっぽく見えるこの部屋、窓を囲む枠や、長く垂れ下がったシャンデリアなどの、細かい彫刻や飾りが、重厚さを更に演出している。シャンデリアの下にある椅子、実は、このようにS字型に背もたれがくねられているのは、このように「仕切り」があるため、男女が隣合わせで座れるからである。19世紀には、男女が椅子に隣りあわせで座ることが出来なかったそうだ。しかし、この椅子では、直接触れる事がないので、唯一、男女が近づけるという、ちょっとスリリングな出会いの場といった感じだったらしい。



 ベイル夫人の寝室の天井に描かれたこの絵、私には中国人に見えるのだが、実は、巷では、この絵が裸であるようだとの噂が流れていたらしい。明らかに、それはとんでもないデマだったのだが、しかし確かに、なんとも艶めかしい女性の絵である。このベイルマンション、ベイル氏が無くなった後、貧しい老人が住む老人ホームになっていた時代があるらしいのだが、その時に住んでいた老人が、この絵があまりにも艶めかしいので、夜眠れないと訴えたそうである。それにしても、なんでこんな絵が、夫人のベッドの上に描かれていたのだろう。



 艶めかしいといえば、上の白い彫刻、1904年、セントルイスで行なわれた万博で出展されたそうだが、あまりにもセクシー過ぎるので、布が被せられたそうだ。この白い女性は、ベイル家に所属するものではないのだが、この豪邸に贈呈された物らしい。この人形、かなり大きくて、多分私より大きいくらいである。

 公開されている部屋をすべて見ると、最後に小さな土産物売り場で、ツアーは終了した。私はそこで絵葉書を買い、外に出た。玄関を出て、外を少々歩いていると、小さな女の子を連れた女性が、「一緒にいる写真を撮りましょうか?」と申し出てくれたので、玄関前で写真を撮ってもらった。



 この後、次の目的地に向けて出発した。

2011年12月17日土曜日

ヌードルス・アンド・カンパニー



 フロリダ帰りの夫を空港に迎えに行き、ランチを食べていなかった私は、どこかで外食することを提案した。そこで、「じゃあ、空港から近い、ゾナロサに行く?」と、夫が言う。ゾナロサ(http://www.zonarosa.com/)とは、カンザスシティーの北方面にあるショッピングモールで、おしゃれなお店が入っているので有名。そこで、簡単に食事をしたいと思い、セルフサービス形式のヌードル屋、「Noodles & Company」(http://www.noodles.com/)に行く事にした。

 私の専属モデル(つまり夫)も、なかなか自然にポーズできるようになったではないかと思う、上の写真、ただ単に、写真を撮られていることに、気付いていなかっただけだが、雑誌の切り抜きのようだと私は思っている、今回お気に入りの一枚。店内はこのように、モダンで明るく、気軽に入れる雰囲気が良いと思う。以前この店で、私は「Japanese noodle」を、夫はアジアンテイストのヌードルを注文したのだが、その時は、これほどまずいヌードルを食べたのは、初めてだと思った。夫が注文したヌードルは、「シャンプーのような味」だと思った(と言っても、シャンプーを食べた事は無いのだが。)しかし、今回なぜまた再挑戦したのかというと、「アメリカ人にアジア料理を作らせる方が間違っているのであって、イタリアンとか、アメリカンなら、もう少しまともに出来るのではないか」と思ったからだ。その考えは的中し、私が注文した「ペンネ・ロサ」は、スパイシーなトマト味で、随分美味しかった。



 夫が注文したのは、チキンヌードルスープとスパイシー・チキン・シーザーという代物。どちらも美味しかった。



前回の印象から180度転換し、「ゾナロサで気軽にパスタを楽しむなら、ヌードルス&カンパニー!」と思うほど、今回、かなり気に入ったレストランである。アジアンテイストを選ばない方が、無難ではあるが。

2011年12月15日木曜日

カンザスシティー国際空港



 先日、夫がフロリダに行き、カンザスシティー国際空港まで、送り迎えをした。カンザスシティーの空港は、国際空港とは言え、非常に小さい。ターミナルはA,B,Cの三つのみ。空港内に走る電車などは、もちろん無い。しかし、小さい空港は、移動も便利だし、人を探すのもゲートを探すのも簡単というメリットがある。なので、私は小さい空港が好きだ。



 出発の朝は、6時半頃に家を出て、空港で朝食を取る事にした。夫をターミナルAの入口で降ろし、車を駐車場に入れようと試みるが、なぜか駐車場のゲートが開いていて、チケットが取れない。仕方が無いので、チケット無しに、空港の中に入る。駐車場から出る時に、少々問題があるだろうが、私の非ではないので、説明すればどうにかなるだろう。

 チェックインを済ませた夫は、私が来るまでに予想以上に時間がかかったので、心配していた。搭乗時間まであまり余裕も無く、Quiznoというサンドイッチ屋に急いで行く。そこで、半分ずつに分けたサンドイッチを大慌てで食べ、夫を見送った。本当は、優雅にコーヒーを飲み、べーグルでも食べている自分を想像していたのだが、そんな余裕は無かった。この「空港で朝食を」計画は、あまり成功しなかった。

 夫を見送った後、駐車場に戻り、さて、どうやってここを出ようかと、考える。入口のゲートは、まだ開いていた。逆流し、逃げ切る事も出来たであろうが、正直に出口の係員に説明すれば、何とかなるだろうと思った。ゲートが開いていて、チケットが取れなかったのは、本当だ。きっと防犯カメラに私の車が映っているだろうから、本当に詰問されたら、そう言えばいい。こういう時は、強気でいかなくてはいけない。で、出口のブースに居た初老の女性に、「ゲートが開いていて、チケットが取れなかったので、チケットを持っていない。しかし、駐車していた時間は、1時間未満のはずだ。」と述べると、彼女は慌ててどこかに電話し、それで出口のゲートを開けてくれると思ったら、ブースから出て来て、私のナンバープレートの番号を書き留め始めた。ここで少々時間がかかりそうだったので、エンジンを止め、じっと辛抱強く待つ。これで時間に追われていたら、堪らないなと思った。しばらく経って、その係員はやっとブースに戻り、「こういう場合に取らなきゃいけない手順があるのでね」と、私に言う。そして3ドルを請求すると、やっとゲートを開けてくれた。

 ちなみに、カンザスシティー国際空港の駐車代は、30分未満1ドル、1時間未満3ドル、でその後は1時間ごとに3ドル追加され、一日の上限は20ドルだそうだ。空港までのシャトルバスが出ている「エコノミー駐車場」では、一日6ドルで、一時間以内は無料!ずーっと以前、夫と日本に帰った時、空港までタクシーを使い、百ドル以上かかったのを、覚えている。それなら、エコノミー駐車場を使った方が、安くついたというものだ。これからは、そうしよう。

 この後、いつもよりかなり早く会社に出社し、いつもよりかなり早く退社した。(フレックス制の会社ゆえ、こういうことが可能)



 さてその四日後、待ちに待った帰宅の日がやって来る。飛行機の到着時間が午後1時50分だった為、「5時間」の有給休暇を取り(うちの会社では、こんなフレキシブルな有給休暇の使い方が出来る)、午後1時に、会社を出た。ハイウェイを飛ばして、一時半前には、空港の駐車場に入り、今回はきちんとチケットを取る事が出来た。一番近いだろうと思い、最上階の青空駐車場に駐車した。

 到着時間まで少々時間があり、ゲート近くをウロウロする。空港内は、上の写真のように、ガランとあまり人気が無い。地元のテレビ局「NBC Action News」の売店があり、キャスター達の写真があった。今回、夫は最初、ユナイテッド航空で行き、帰って来るときもユナイテッドと思っていたら、なんとコンティネンタルに変わっていた。それもヒューストン経由。それでインターネットで調べて見ると、なんとヒューストン国際空港は、「ジョージ・ブッシュ・インターコンティネンタル空港」と呼ばれているそうだ。さすがブッシュのお膝元、テキサスである。オバマ大統領の大ファンの私は、テキサスでは、生きていけそうも無い。

 コンチネンタル航空は、ターミナルCにあり、そこは国際線があるらしく、トラベラーズチェックの発売機があった。チケットを持っていなければ、ゲートの中には入れない。小さな空港ゆえの長閑さもあり、搭乗口と飛行機から出てくる人たちが使う通路は、すぐ横にあった。やっぱり、小さい空港は、人を探すのが簡単で良い。

 

 そして、やっと帰って来た夫。ウェルカム・ホーム。

2011年11月29日火曜日

カンザスシティー彫刻公園



 「死者の日」のお祭が行なわれたのは、カンザスシティーにある「ネルソン・アトキンズ美術館」だったのだが、この美術館の周りは、「カンザスシティー彫刻公園」と呼ばれており、数多くの彫刻やオブジェがある。「死者の日」は、とても美しい日で、お祭を見学した後、公園を少々散策した。この公園で一番有名なのが、上の写真のお茶目な夫の背後にある「バトミントンの羽」だ。なんでこんな巨大な羽がボコボコ配置されているのか良く分からないのだが、ネルソン・アトキンズ美術館を見つける目印と言っても良いくらい、カンザスシティーのランドマークになっている。



上の写真では良く分かりづらいのだが、2つ、バトミントンの羽がある。



 ロダンの「考える人」もある。




周りでオトボケに考えている人もいる。

晴れた午後の青空の下、「ネルソン・アトキンズ美術館」はとても美しかった。




この他にも、この公園には数多くの彫刻があり、これだけを解説するオーディオガイドもある。(下のウェッブサイトには、写真がいっぱいなので、ぜひクリックしてください!)
http://nelson-atkins.org/studio33/interactives/kcsp/index.cfm

11月なのが信じられない程、とても暖かい日だった。

2011年11月26日土曜日

2011年 サンクスギビングデー



 今年は、サンクスギビングデーの直前に、2回もポットラックパーティーがあった。そのうちの一回は、日曜日に我が家で、もう一回は、火曜日に会社で。なので、去年の半分の出席者とは言え、また我が家で行なわれるサンクスギビングに、てんてこ舞いであった。前日の水曜日に有給休暇を取っておいて、本当に良かった。

 水曜日の昼間に、いつも行くスーパーに買い物に行き、前日作ったリストにある品々を買い揃える。私の会社からHoney Baked(http://www.honeybaked.com/)というハムで有名なお店の商品券40ドル分を貰っていたのだが、夫の父がハムをくれるという情報を得たので、商品券は、また他の機会に使うことにし、今回は、いつものようにターキーを焼く計画だった。夫の母と姉は、そのハムと、グリーンビーンズのオーブン焼き、スタッフィング、スイートポテトのオーブン焼きを、デザート担当の叔母はクリームチーズケーキを持参するというので、私はそれ以外の物を作らなければならない。インターネットでレシピを検索した結果、コーンカセロール、クリームド・スピナッチ、マッシュルームの詰め物、そして去年も作ったボビー・フレイのターキーを作ることにした。私個人だけなら、寿司でも作るのが一番嬉しいのだが、ファミリーの日、サンクスギビングデーなので、それらしく伝統的な物を選んだ。

 去年の経験から、できることは全て前日にしておいた方が良いということは分かっていたので、まず、作り置きできるクリームド・スピナッチ、つまりホウレン草からスタート。初めはレシピ通りに作ったのだが(そのレシピはこちら:http://www.foodnetwork.com/recipes/ellie-krieger/creamed-spinach-recipe/index.html)、それではあまりにも味が無かったので、冷蔵庫にあったクリームチーズやら、パルメザンチーズやら、とにかく「クリーミーな物」を片っ端から投入し、何とか食べられるようにした。初めのレシピは糖尿病患者用のレシピかと思うほど、全く素っ気無い味だった。

 次は自分で勝手に考案した「クランベリー・ショートケーキ」。クランベリーに砂糖とシナモンを加え、弾けるまで煮詰める。クランベリーは本来、とてもすっぱくて、少々苦い。なので、大量の砂糖が必要なのだが、多分普通のアメリカ人が入れる3分の1くらいの量にした。スーパーで買ってきたショートケーキの土台の上に、ホイップクリームを塗り、その上にクランベリーを載せた。試食係の夫に食べさせたら、「旨い、旨い」と言って食べてくれたので、翌日デビューさせる事にした。(デビューした状態が、下の写真。)



 コーンカセロールも、翌日焼くだけで良いように、全てをオーブン皿に入れ、冷蔵庫に眠らせる。

 私の一番の格闘は、「ターキーの解凍」だった。ターキーは、カチンコチンに凍った状態で売っている。(いや、生のターキーもあるのだが、私ごときの庶民が買う安いターキーは、みんな凍っているのである。)このターキーを冷蔵庫で自然に解凍するには、二日間かかるのだが、私にそんな余裕は無い。そこでアメリカ主婦五年目の私がどうしたかと言うと、「水に浸ける」のである。本当は、あまりお勧めする方法では無いのだろうが、こうするより他ないのである。病気になった人がいないところを見ると、これで良いと、私は思う。

 さて、このターキーの解凍、今年私は、「ウン、だんだん、私も慣れてきたではないか」と自我自賛した。初めて作った時など、羽が毟られ、首がちょん切られただけの丸ごとターキーに、「死体」を触るような思いがし、正直言って、吐きそうな気分になったのだが、今年は、羽を広げ、内臓が取り出されたターキーの死体の空洞に手を突っ込み、切り取られた首を引き出すのも、難なくこなした。ここに辿り着くまでに、かなりの時間が必要なのだが、最後に首を引き抜いた時は、かなりの達成感が味わえた。

 去年、時間がかかり過ぎ、客人たちを待たせることになったのは、意外に前準備に時間がかかることを読んでいなかったことが原因だったので、今年は、できることはすべてやろうと、ハーブバターを作り、玉ねぎ、セロリ、人参を、前日に切っておいた。切った野菜をアルミホイル製の大きなケースに敷き詰め、その上にターキーを載せ、アルミホイルで包んで、冷蔵庫に押し込んだ。本当は、マッシュルームも準備しようと思っていたのだが、疲れてきたので、翌日する事にし、テーブルクロスにアイロンをかけ、就寝する。

 さて本番当日、まず最初に、ターキーを冷蔵庫から出し、ハーブバターを塗る。これがなかなか大変なのである。うまく濡れないので、粘土のようなバターの塊を所々に置くといった感じだ。そして切った野菜の半分を空洞に入れる。残りの半分は、下に敷けと、ボビー・フレイは言っている。なので、そのようにして、オーブンに入れ、華氏450度で45分焼く。その後、350度に温度を下げ、2時間15分焼く。私は、「これで、オーケー」と思い、他の事をし出し、15分くらい経ってから、ボビー・フレイがFoodNetworkの番組で、「ターキを焼くのに、一番大切なのは、大量のチキンストック!」と言っていたのを、ハッと思い出し、慌ててチキンストック4カップを投入する。危ない所だった。究極にドライなターキーになる所だった。こうして、無事出来たのが、下のターキーである。



初めチキンストックを入れるのを忘れていた為、少々、茶色過ぎると思わないでも無いが、文句を言う人はいなかったので(言うとしたら、大変失礼な奴だが)、まあ、良かったのだろう。

 実は、ターキーを冷蔵庫から出した時に、夫の父がやって来た。父は、強力に機嫌が悪い日もあるのだが、そうじゃない日は良い人で、この日は、私にお花を持ってきてくれた。これは花瓶に挿して、テーブルの上に飾った。彼が置いていった茶色の紙袋の中には、その他にも、イチゴ等、美味しそうなものが入っていて、食べれるものは全てサンクスギビングの食卓に出した。

 指定した時間になったら、まず、夫の母と姉がやって来た。約束通り、父から貰ったハムを抱えて。(夫の両親は離婚しているので、一緒にサンクスギビングはしません。)そのハムは下の物。



 叔母も登場し、みんなで食卓を囲む図。写真で見ると、なかなか快適そうに見える、と自分では思っている。



なぜか今年は、叔母も、母もワイン持参で登場し、私達も結婚記念5周年で行ったワイナリーのワインがまだ残っていたので、みんなでワインを飲む事になった。なかなか美味しいワイン達だった。



上は、姉と叔母。下は、疲れ切った私と夫である。



とにかく、サンクスギビングが無事終了し、良かった。

2011年11月8日火曜日

Dia de los Muetos - 死者の日



 メキシコでは、11月1日と2日、「死者の日」と言って、死んだ人達がこの世に降りて来るのを、盛大に祝うお祭をするらしい。日曜日の11月6日に、カンザスシティーにある「ネルソン・アトキンズ美術館」で、"Dia de los Muetos"「死者の日」のお祭を、カンザスシティー在住のメキシコ領事館が主催するというので、夫と一緒に赴いた。

 良く日本の盆のようなものと例えているのを読むのだが、それは少々違うと思う。彼らは、あまりにも明るいのである。故人の写真や生前好きだった食べ物をお供えする祭壇「オフレンダ」は、オレンジ色のマリーゴールドで飾られ、オトボケな骸骨達が陽気に踊り回るのが、「死者の日」らしい。日本の盆のイメージからは、かなりかけ離れている。

 最初に入った美術館の入口では、骸骨の版画を刷っている人たちが居り、その前には長い列が出来ていた。列に加われば、一枚もらえたのかもしれないが、時間がかかりそうだったので、私達は諦めた。その横には、随分可愛らしい「死者の日」の展示があった。




 入口に"Jose Guadalupe Posada"と書かれたサインがあり、その下には、滑稽な骸骨カップルが腕を組んでいる。何でも、この画家が書いた骸骨の絵が、「死者の日」の典型的なイメージらしい。随分キュートなカップルで、一目で気に入った。




 建物の奥から音楽が聞こえてくる。中に入ると、沢山の人達に囲まれて、メキシコの楽団「マリアッチ」が、陽気な音楽を奏でている。アメリカのど真ん中、中西部の美術館にいるのが信じられないほど、メキシカンな空間である。彼らが脇で待機している時に、夫が写真を撮っても良いかと聞くと、その中の女性演奏者が、「あなたも中に入って、写真を撮りましょう」と私に言ってくれたので、下のような写真が撮られた。



 私達夫婦は、次の出演者が待っている場所の近くに居たので、近距離で写真を撮れた。とても明るい骸骨達だ。




カメラ目線に思いっきりポーズを取ってくれて、どうもである。どうやら、男性が女性の服装を、そして女性が男性の服装をしているようである。

 実は観客の中に、地元のテレビ局ニュースレポーター、Chris Hernandez(http://www.nbcactionnews.com/dpp/about_us/staff/Chris-Hernandez%3Cbr--%3EPolitical-Reporter)が居るのを発見し、あからさまに写真を撮るのは気が引けたものの、陰からしっかり写真を撮った。




私がパパラチに化した瞬間でもある。

先程の陽気な骸骨達は、会場の人達も招きいれて、楽しい踊りを披露してくれた。






 子供達によるダンスもあった。こちらはもっと伝統的なメキシコの衣装。とても可愛かった。





 飾り付けも骸骨だらけである。






とてもカラフルな一日だった。