2010年11月21日日曜日

ケースパーク



 アメリカ大陸の中央に位置する、ミズーリ州カンザスシティー。そのダウンタウンの一画「クオリティーヒル」に、「ケースパーク」という公園があります。カンザス川を見下ろす丘の頂に作られたこの公園には、アメリカ人としては初めて大陸を徒歩で横断した「ルイスとクラーク」の銅像が立っています。ルイスとクラークは、アメリカ第三代大統領トーマス・ジェファーソンの命により、「ルイジアナ買収」でフランスから手に入れた広大な土地を調査した、探検隊の隊長達でした。ジェファーソン大統領が命じたことは、「ミズーリ川流域を探検し、太平洋に続く水路を見つけよ」というもの。それに加え、大陸の天然資源や、動植物の調査も課せられました。フランスから購入した土地は、それはそれは「未知なる世界」だったのです。



 ルイス・アンド・クラーク探検隊は、太平洋到達後の帰路、1806年9月15日に、現在ケースパークがある丘に登ったことが、彼らの日記に記録されています。ルイス大佐はこの丘を、「見晴らしが良く、砦を作るのに最適な場所」と記しました。確かに、この公園からは、下に広がるカンザス川と広大な平野が一望でき、その当時は、ヘラジカ等の野生動物がのんびりと歩いていたことでしょう。現在のケースパークからは、高速道路や20世紀初頭に建てられたブロック造りの大きな倉庫群が、西方面に見えます。ここから眺める夕日はとても美しく、夕暮れ時になると、ベンチに寄り添い合うカップルが、出没します。



 隊長であったメリーウェザー・ルイスと、ウィリアム・クラークは、二人とも軍人でしたが、この探検旅行は、彼らだけで行われたのではありません。40人ほどの探検隊に、旅の途中、現在のノースダコタ州で、フランス人毛皮商人の「トゥーサン・シャルポノー」と、彼のネイティブアメリカンの妻「サカガウェア」が加わります。サカガウェアは、少女期に他部族のヒダッサ・インディアン族に誘拐され、奴隷となった後、妻としてトゥーサン・シャルポノーに売られたのでした。サカガウェアはロッキー山脈がある現在のアイダホ州に住んでいたショーション族の出身だったため、西部のネイティブアメリカンの言語に精通しており、通訳として大活躍しました。トゥーサン・シャルポノーとの間の子供「ジェーン・バプティスト・シャルポノー」を、1805年2月11日に出産し、子連れのまま、旅を続けます。行く先々、白人部隊に対して警戒心を持った現地人達も、赤ん坊を連れたネイティブアメリカンの若い母親の姿を見て友好的になり、戦争を回避したといいます。こうしてルイス・アンド・クラーク探検隊は、一人の戦死者も出すこと無く旅を終了しました。サカガウェアの多大な貢献を、心底感謝していたのか、クラークは、早死にしたサカガウェアの死後、彼女の息子のジェーン・バプティストを、養子として迎えました。ケースパークの銅像には、ジェーン・バプティストを背負うサカガウェアも含まれています。




 ルイス、クラーク、サカガウェアの銅像の裏側には、「ヨーク」という黒人奴隷の姿もあります。彼は隊長の一人、ウィリアム・クラークの奴隷だったのですが、探検隊の他のメンバーと同様に、発言権があり、偵察、狩猟、野営での治療などのスキルがあったそうです。その当時、黒人奴隷の武器所有が禁止されていたことを考えると、旅行中、かなりの自由が与えられていたようです。しかし、探検旅行終了後、他の白人メンバー全員が給与と土地が与えられたにもかかわらず、ヨークには何も与えられませんでした。彼はクラークの所有物だったからです。探検隊への貢献の報酬として、ヨークは自由を求めたそうですが、その後の彼の人生には諸説が有り、良くわからないようです。



 ヨークの隣には、「シーマン」という、ルイス大佐の犬がいます。シーマンはペットではなく、探検隊の重要なメンバーの一員で、馬を駆集めるなどの、人間が出来ない仕事をしていたようです。

 とまあ、ダウンタウンの小さな公園にある銅像には、アメリカでは重要な歴史が、ずっしり詰まっているのです。カンザスシティーにお越しの際は、ぜひ立ち寄ってください。

2010年10月22日金曜日

ミズーリ州ウィンザーの夏祭り



(これは、2009年の「レイバーデー」の週末、ドライブ旅行に出かけた時のものです。旅行の直後、この原稿を書き始めたのですが、途中で放り出してしまい、長い間、コンピュータの中で眠っていました。最近、最後まで書き終えたので、(忘れかけた記憶を頼りにしながら)、ここで発表します!)

 ある日、夫が「ドライブ旅行に出かけよう!」と提案する。夫の父が家を持っているミズーリ州のウィンザーという場所で、夏祭りがあるというのだ。土曜日に有給休暇を取り、ドライブに出かけるというのは、ずいぶん久しぶりのことだった。

 カンザスシティーからウィンザーまでは、2時間くらいのドライブである。家を出てすぐにGPSを持ってこなかったことに気づく。
「どうする?家に帰って、GPS持ってくる?」
少々心配げに聞く私に、
「いや、ちゃんと頭の中に地図が入ってるから、大丈夫だよ。ウィンザーには、何回か行ってるからね。」
と、夫は答えた。

家の近くのガソリンスタンドに寄り、まずガソリンを補給する。「労働者の日」連休幕開けの日であったためか、そのガソリンスタンドには、いかにも旅行に出かけます、といった感じの家族連れが多くいた。こういう風景の一部に自分もなっているのは、なんだか嬉しかった。レイバーデー連休のドライブ旅行。いかにもアメリカという感じではないか。


ドライブは、途中まで順調であった。ハイウェイを南に向かって走り、道路脇にある看板の地名をわざわざ声に出し、読んでみたりする。カンザスシティーの郊外に出ると、緑が美しい田舎の風景が続き、たまに牛や馬が放牧されている牧場や、花畑、湖が見える。それは、ドライブ旅行者にとって、のどかで満足する風景だった。こういう所を走ると、どうも"Country road, take me home, to the place I belong" 等と、昔ラジオでよく聞いたカントリーミュージックの一節を、口ずさみたくなる。夫も同じような心境だったのか、一緒にこの歌を歌いながら、私たちはのんびりと、ドライブを進めていった。

しかしウィンザー近くに来ると、それまでのおおざっぱな記憶だけでは行き先の選択をするのに、十分でなくなってくる。ハイウェイを降りた後のローカルな道には道標など無く、見渡す限り、どこも同じような農耕地帯なのである。歩いている人など、当然いない。私たちは、道が二股に分かれた角に出くわした。右に行くべきか、左に行くべきか。夫は「右に行くべきだ」と言う。しかし私は「左に行くべきだ」と言い放ち、結局、私の意見に従って進行方向を決めたのだが、これが大きな間違いだった。行けども行けども、記憶の中にあるウィンザーの風景は出てこず、いつの間にか次の大きな町に行く高速道路付近まで行く。進行方向が間違っているのは明らかで、私たちはもと来た道を逆戻りすることにした。そしてあの分かれ道まで辿り着き、最初に行くべきだった方向に車を走らせる。しばらくすると、ウィンザーと名が入った看板があり、やっと一安心したのであった。

 ミズーリ州ウィンザーは小さな田舎町で、町の中心地も、ごく小さい。しかし、アメリカ開拓時代当時からあまり変わっていないだろうと思われる建物が残っているのである。インターネットで昔の写真を調べてみたら、白黒写真に写るのと同じ建物が、私が撮った写真の中にも写っていた。

 祭りのため通行止めになっている道を避けながら、私たちは、小さな白い天窓が屋根についている夫の父の家に着いた。普段カンザスシティーに住んでいる夫の父は、まだ到着していなかったが、私たちは誰もいないその家の中に入る事にした。私たちが来る事がわかっていたため、家の鍵はかけられていなかった。これで済むのであるから、アメリカといえども、まだまだのどかな場所が残されているのだと思う。その小さな家の中には、まずリビングルームがあり、その奥に大きなテーブルが置かれたダイニングルーム、そのまた奥に小さなキッチンがあった。ダイニングルームから左に行くと、小さなベッドルームがあり、その隣にバスルームがある。バスルームは次のベッドルームにも続いていて、つまり、両端のベッドルームから入れるようになっていた。夫が小さい時から家にあったという木製の体重計が、バスルームの中にあった。その体重計は、重りをずらして量るもので、私の目には、アンティークのように見えた。窓には、太くて白い木製のシャッターがあり、その隙間から外が見える。外が見えるトイレに入ったのは久しぶりだったので、田舎の家に来ている事をさらに感じた。



 しばらくベッドルームで休んでいると、夫の父と祖父がやってきた。慌てて挨拶をし、初めて入ったその家が気に入った事を告げた。その後、夫は、父の友人と話をしてくると言い、私はカメラを持って、祭りが行われている町の中心地に行くことにした。車に乗っている時に見えた古い町並みを、逸早く写真に収めたかった。茶色いブロックにコカコーラのロゴが書かれた建物がある。こういった建物を、見たままに写真に写すには、どうしたらいいのだろう。小さなカメラのスクリーンに映る写真は、どうも私が見たものとは違う。感動を写真の中に閉じ込めたい。いつも思うことである。




 写真を撮っていると、夫が父の友人と共に現れた。犬のボジョも一緒である。所々で写真を撮り続け、私たちはカーニバルが行われている方に行った。そこには、小さな子供達が笑顔を振りまきながら乗っている、小さな移動式遊園地があった。その横に、若い女の子が台の上に乗った装置がある。装置の右端に付いている的にボールを当てれば、女の子が下の水槽に落ちるという仕組みだ。こういう遊びは、昔からあるらしく、映画などで見たことがある。



 夫が何か食べようと言い出す。夫と父の友人はホットドックを、私はバーベキューが入ったサンドイッチを、屋台で注文した。バーベキューと言っても、日本のように串刺しになった物ではなく、じっくり弱火で焼いた肉の塊をほぐした物である。それにバーベキューソースがかけてある。そのバーベキューは、ハンバーガー用のバンズに挟まれて、私のもとに届けられた。この後、夫は家に戻ると言ったので、私は一人でバーベキューサンドイッチをベンチで食べながら、祭りの様子を楽しんだ。写真を撮り、フェンネルケーキがあったので、それを購入した。フェンネルケーキとは、ドーナツのドウのような物を細く絞り出し、丸く型取った後、油で揚げたものである。その上にパウダーシュガーをかけて、熱々のうちに食べる。油で揚げただけのシンプルなおやつである。これを家に持って帰り、夫と一緒に玄関前のポーチで食べた。 




 道の向かいにある広場では、馬の蹄を投げるゲームをしている村の男達がいた。ビールを片手にワイワイと集まった男衆は、何やら楽しそうな雰囲気であった。





 しばらくすると、テントがあるステージで、バーベキューコンテストの結果発表があったので、家から携帯用の椅子を持って見に行くことにした。しかし、せっかく場所取りをしたのに、夫がやって来て、「ディナーの用意ができたから、家に帰って食べよう」と言う。本当を言うと、食事より、バーベキューコンテストの方に興味があったのだが、せっかく義理の父が作った食事を、無視するわけにもいかない。なので、家に戻りテーブルの席についた。




夫の両親は、アメリカの50パーセント以上の夫婦同様、離婚している。長い間独身で黙々と生きてきた父の料理は、無骨ながら、アメリカの原野の味がした。少々固くなってしまったポークチョップ。缶詰のグリーンビーンズ。そしてデザートのケーキ。私が作る料理に比べて、野菜が著しく少ない。これらの料理を、ワインと共に食す。私は、ワインを飲みながら、食事をすることがほとんどないので、すぐに酔ってしまい、あまり食べることができなかった。


 食事もそこそこに済まし、またコンテスト会場に戻る。バーベキューは「男の料理」で、名を呼ばれる人達は、ほとんど男性だ。私はそのバーベキューの味見はしていないのだが、名前が呼ばれるたびにステージに向かい、トロフィーやリボンを誇らしげに受け取る、見知らぬ男達に、賞賛の拍手を送った。 



 このベーベキューコンテスト受賞者発表の後、タレントショーがあった。タレントショーとは、要するに、のど自慢大会である。しかし、田舎ののど自慢大会と侮るなかれ。この地方一帯のタレントショー巡りでもしているのか、中には、ずいぶん素人離れした歌唱力を披露する者もいた。こうした半プロの歌手達と、地元出身の参加者は、一目で違いが分かる。半プロの歌手達が、垢抜けた装いであるのに対し、地元出身者達は、やはりなんだか、「田舎者」という感じがするのである。婦人会や学校でこのタレントショーのことを聞きつけたか、運営委員会をしている友人に頼まれて参加したのだろう、歌唱力が無いのはもちろん、中には、歌詞さえ覚えていない人もいた。その一方、州を超えてやってきた半プロ歌手達は、曲と曲とのつなぎ時間の使い方も慣れたもので、「この曲は、友人の誰々に贈ります」と言ったりし、ほとんどスター気分なのである。この辺が、私が一番感心した点である。このタレントショーの審査員は、地元のラジオ局のDJである。やはりそれなりに、そういう分野で活躍している人を選んでくるんだなと、この点も感心した。

 このタレントショーが終わったのは、夏の夕暮れから夜に変わる頃で、オレンジ色のライトがついた会場は、たくさんの人が詰めかけていた。こんな小さな町に、こんなにたくさんの人がいたのかと驚くほどである。この会場で、今度は、地元婦人会メンバー作成の「キルト」や「パイ」のオークションが始まった。このオークションの司会は、プロと思われる男性二人で、何を言っているのか良くわからないほど早口で、まるで歌を歌っているようなリズミカルなテンポだ。こういう人は、テレビでは見たことがあったが、生で見るのは初めてだった。キルトもパイも、どこか他の場所で行われたコンテストに出品された物らしく、「このキルトは、賞を取りました」と紹介する。これが、結構なお値段で売れてゆくのである。参加者が手を挙げる度、カウボーイハットを被ったフェスティバル運営者達が、大きな声で威勢良く知らせる。きっと、開拓時代のカウボーイ達も、年に一回のフェスティバルを、こんな風に盛り上げていたのではないかと、なんだか、アメリカの大地を感じる光景だった。こうして夜も更けてゆき、このオークション終了後、カンザスシティーまでドライブして帰った。

2010年9月18日土曜日

カンザスシティーBBQレストラン、アーサー・ブライアント



 カンザスシティーがバーベキューで有名なのは、何度か言ってきたが、このレストランは、知名度が違う。「アメリカで最も有名なバーベキューレストラン」と言われるくらいで、セレバティーでも大御所な方が、たくさん訪れているのだ。カーター大統領や、スティーブン・スピルバーグなんて、歴史上の人と言ってもいい人達である。最近では、オバマ大統領の対戦候補者だったジョン・マッケインや、セラ・ペーランも来たらしい。つい先日「トラベルチャンネル」の「Food War」でも、カンザスシティーにあるもう一つの有名なレストラン「ゲーツ」と味見対戦し、アーサー・ブライアントが勝ったばかりだ。そんな超有名なカンザスシティーのバーベキューレストランに、会社の帰り、夫と一緒に行った。バーベキューレストランに行く日は、豪雨になるのが私たちの宿命なのか、この日も既にちらほらと雨が降り出していた。





 レストランの駐車場に着くと、バーベキューのいい香りが漂っている。「なんだか薄汚そうな所」等と言ってはいけない。これがいいのである。ちなみにこのレストラン、アメリスターというカジノホテルの中にも支店があるが、こっちの方は超小ぎれいで、情緒が無いのである。こう思うのは私一人ではないはずで、小汚い本店の方が、遥かに繁盛している。私たちがレストランに着いたのは、6時頃。ディナーの時間帯で、引っ切り無しに客がやって来る。私たちの前にも既に長い列ができていたので、注文まで時間がかかったが、その分オーダーを決める時間があったのは良かった。サンドイッチ一つはどの肉でも8ドル35セントだ。これに1ドル上乗せすると、二種類の肉が楽しめる。到底、全部食べきれないのは分かっていたが、食べ比べたかったので、「ビーフ」と「チキン」を頼むことにした。食べ残した分は、お持ち帰りにすれば良い。このセットにさらに1ドル60セント加えると、フライドポテトが付いてくる。ポテトを外すわけにはいかない。それに必ず頼むことにしている「ポークビーンズ」と、ダイエットコークの大を注文し、夫は同じコースで、「バーントエンド」と「リブ」を頼んだ。トレイに乗り切らないほどの食事を抱えて、キャッシャーに行くと、なんと「43ドル」と言われた。「フォーティースリー?」と、思わず聞き返す。確かに絶対食べきれない量だが、こんな小汚いレストランで二人分が43ドルになるわけが無い!しかし今回の会計係ではない夫は、「税金が入っているからね」と、そんなことは気にしていない様子。しかし、絶対あの時はぼったくられていたはずだ。私の計算でいくと、税抜きの値段は33ドル45セントだ。(さっきやってみた。)いっくら何でも税金だけで、9ドル55セントと言うのはあり得ないはずだ。28パーセント以上である!今、また怒りが再浮上するので、この話はここで終わりにする。

(後日編集:後で夫に聞いたら、「リブ」は、「別売り」だったようで、お勘定としては、これであってるそうです。それにしても、高いと私は思う。)




 とにかく、買った食事をテーブルに載せると、こんな感じだった。気を取り直してビーフを食べにかかる。
「?」
ドライだ。鰹節級のドライさである。そこで「世界的に有名な」特製ソースをかけてみる。
「......」
はっきり言って、まずかった。周りで楽しそうに食事をしている客の気を害するのは、本望ではないので、何も言わなかったが、ビネガーテイストのソースは、私の好みではない。しかし信じられないことに、このソース自体が有名なのである。トラベルチャンネルの「Food War」では、「ゲーツ」と対戦して、なんと4対1で、アーサー・ブライアントが圧勝だった。私達は、この番組をレストランに行ってからかなり後に、一緒に見たが、私と同じようにこのソースが好きではない上に、ゲーツファンである夫は、この結果が信じられないと言った。なんだか、アメリカ人のバーベキューに対する味覚と、私の味覚とには、大きな隔たりがあるようだ。

 夫が食べた「バーントエンド」とは、牛肉の「ブリスケット」の端を切り落としたもので、再度調理してある。今回注文した物の中で、これが一番おいしかった。私の鰹節のようなビーフよりはずっと良い。チキンもおいしかった。しかし、あのビーフは絶対、鰹節である。

 最近、レストランで当たりが少ない。本当にお気に入りのレストランが見つかるまで、受難の道が続きそうだ。レストランを出ると、豪雨である。もしかしたら、雨が降っていたのが、「あのレストランは、あなた向きじゃありませんよ」というサインだったのかもしれない。これから雨が降る日は、レストランに行くのを控えようか。

2010年9月17日金曜日

ワトキンス羊毛紡績工場



 レイバーデーの前日、夫が「ワトキンスに行こう」と言った。ワトキンスとは、ミズーリ州ローソンにある「ワトキンス羊毛紡績工場」のことで、ミズーリ州管轄の公園の中にある。この工場と工場主の自宅が一般公開されており、ガイド付きツアーで見学することができる。インターネットで調べると、一時間に一回、自宅と工場のどちらかのツアーがあるようだ。そこで、レイバーデーの当日、夫と車に乗って、この公園まで出かけることにした。

 ワトキンスがあるローソンは、私たちが住んでいるカンザスシティーから30分ほど北に向かった小さな町だ。ここに、「ウォルタス・ロケット・ワトキンス」というケンタッキー州出身者が、19世紀、羊毛紡績工場を創設した。彼は最初、農園を開き、家畜を育てた他に、果樹園、トウモロコシ畑等も所有していたそうだ。公園に着くと、緑豊かな広大な敷地が延々と続き、曲がりくねった細い道を奥までドライブし、やっとビジターセンターを見つけた。



 ビジターセンターは、とても現代的で、清潔な建物だ。受付で「ツアーがあると聞いたのですが」と言うと、「3時から家のツアーが、4時から工場のツアーがあります」と返事があった。そこでそのツアーに参加することにし、待ち時間が少々あったので、館内の展示物を見学した。その当時の黒い馬車が、目の前にあった。以前、ルイジアナ州のプランテーションに行った時に、そのプランテーション領主「ローラ」が書いた本を購入したが、その本の中には、「馬車」が良く登場する。こんな感じの馬車だったのだろうか、と想いを馳せた。その奥には、機織り機があった。その機織り機を見ている時に、隣の部屋でビデオが始まったので、そのビデオを見ることにした。このワトキンスの農園と工場は、この地方一体の「デパート」みたいなもので、工場内にある店に、近くの農民が物々交換に来たそうだ。そんな歴史を少々習ったところで、ツアーの時間になったので、ビデオは途中だったが、ワトキンス氏の邸宅の方に急いだ。



その邸宅はブロック作りの大きな家で、ビジターセンターから少し歩かなければいけない。木が生い茂る道の向こうに、ビジターセンターの受付にいた女性がおり、白い柵の向こうを指差しながら、「あちらの家の前でお待ちください」と言う。そこで、その白い柵の中に入り、芝生を上って、家の前に行った。ブロックが少しはがれているものの、どっしりとした造りの家だ。その当時にしたら、大邸宅だったに違いない。そこに私たちの他に10人ほどの観光客が集まった。ツアーガイドはまず、私たちを家の横に連れて行き、この家にワトキンス氏の妻、子供はもちろん、母親等、親戚も住んでいたことを説明した。そして次に家の前に移り、玄関の鍵を開ける。玄関を入るとまず、豪華な階段が目に入った。ガイドの話によると、階段作りの専門家によって、何年もかかって作られたそうだ。ルイジアナ州のプランテーションでもそうだったが、こういう風に、自宅でビジネスを営んでいる家では、「一般の人が入る場所」と「家族が住む場所」は分かれていたようだ。もちろん、玄関を入った最初の場所は「外客用」で、19世紀の豪華な家具があった。



次に二階に上がると、何とも感じの良い机がある。小さな棚があり、書類を分類できる仕組みだ。その上にはガラス張りの本棚が備え付いており、年代を感じさせる。ガイドは、そこでワトキンスの秘書が働いていたと言った。





その机のすぐ隣は泊まり客用の部屋で、白い洗面器と水差しがあった。その当時の「泊まり客」とは、何週間、時には何ヶ月も滞在するのが当たり前で、ワトキンス氏の妻は、まるでホテルの受付のように、「何月何日までは、誰々さんが泊まっているから、その後なら泊まっても大丈夫」と、泊まり客のスケジュールを管理していたそうだ。こういう習慣があるから、アメリカの家には「ゲストルーム」というのが存在するのだろうかと思った。


その後、一階に降り、「家族のスペース」へと移行する。最初に見たのはリビングルームで、こちらは外客用の居間より、何となく和やかな感じがした。フレームに入った家族の写真が飾られており、暖炉も使用した形跡がある。本棚には、古い本がたくさんあった。私のアメリカの大学の図書館にあるような、古い本。きっと開ければ、少々埃っぽく、カビ臭い本なのだろうと、授業の調べ物で必要だった古い本を開いた時のことを思い出した。最初から気付いていたことだが、このツアーで写真を撮っているのは、私一人だけだ。きっと地元の人達で、レイバーデーを過ごすのに、ちょっと寄っただけという感じだったのだろうが、私たちとて、泊まりがけで行ったわけではない。ブログを書くおかげで、私は「ちょっとお出かけする時は、必ずカメラ持参」が当たり前になっているが、それでも、他のアメリカ人のツアー客と私との間には、明らかに違う物があった。彼らにとって、19世紀の家の中など、さほど珍しくないのだ。確かに、家具は普通の家の物よりは高級そうだが、これくらいの物であれば、「おばあさんの家」にある。そういった感があった。

この後、子供達の部屋等を見学し、家の外に出た。そこには「サマーキッチン」と呼ばれる屋外キッチンがあった。小さなブロック造りの小屋のような建物で、中には大きな料理用のストーブがあり、奥には食器が入った棚がある。私の家のキッチンより遥かに大きい。ここでワトキンス夫人は、時には親戚の女性等を雇いながら、料理をした。大家族で、ビジネスもしていたから、客をもてなす機会は多かっただろう。この頃の女性は長いスカートをはいており、料理中、暖炉の火がスカートに燃え移ったりしたそうだ。ツアーガイドは、このキッチンで、75名分の食事を作ったことがあるというから、かなり機能的なキッチンである。

サマーキッチンを見学した後、家のツアーは終了した。ガイドは、次の工場のツアーまで15分くらいあるから、外の施設を自由に見ても良いと言う。そこで、夫はまず、「スモークハウス」が見たいと言った。全て自給自足の農家である。自宅でハムを作るのは当たり前だったのだろう。写真の建物は、「氷保存室」。ルイジアナ州のプランテーションでも習ったが、電気が普及する前、人々は食物を地下に保存していたのだ。なので、きっとそんな所だろうと予想していたら、やっぱり、大きな穴があった。いや、穴と言うより、地下に一つの場所があると言った方が良いくらい、深く大きく、底には藁が敷いてある。そこに冬の間、川から氷を切り出し、夏のために保存していたのだろう。同じ小屋の中に、馬のくつわがあった。

その後、キッチンガーデンを見学する。様々なハーブや野菜が植わっており、こんなガーデンがもてたら良いなと思う。その横には、鶏を囲っている場所があった。日本の白い鶏とは、ずいぶん違う。カントリー風のグッズが売っている店にある置物のような鶏がいた。どうしてああいう風な置物になるのか、納得した。






時間が気になったので、工場の方に急ぐ。三階建てのブロック造りの茶色い建物の前には、制服を着たボランティアのガイドと、一組の夫婦がいた。私たちが到着すると、ガイドは「これで全員ですかね」と、ツアーを始めた。初老の細身な男性で、きっと定年退職しているのだろう。しかし、ボランティアと言うのだから、無給でこんな仕事をしているのだろうか。ずいぶん善良な人だと思った。

工場の後ろには、木を組み合わせた物があり、まるで「ボンファイヤー」のようだ。ずいぶん緑が美しい場所である。こんな場所を、馬車で揺られながら旅してみれば、さぞかし気持ちが良いだろう。

ガイドは私たちを「ボイルルーム」に連れて行った。この工場が創業されたのは、南北戦争が始まった1861年で、この時代には既に蒸気船も発明されており、工場は全て蒸気で運転されていたようだ。ガイドが説明することはかなり専門的で、私には理解できないことが多かったが、寡黙な私に比べ、夫は興味をもったらしく、色々質問をしている。巨大な蒸気運転ルームの隣は、羊から刈ったばかりの毛を洗浄する場所だった。初めそれが羊の毛だと私は気付かず、「綿花でも作っていたんですか?」と、間抜けな質問をしそうになった。しかし、この工場の名前に「Woolen」という言葉が入っているのを思い出し、「綿花であるわけがないか」と思い直した。そうか、羊の毛から糸を紡ぎだしていたんだと、もう少し前に気付いても良さそうなことに気付く。日本で「ウール」と言えば、「ウールマーク」が付いた高級なセーターを思い出しそうだが、なんだか趣が違う。そこで見た布は、なんだか雑な安物カーペットといった感じなのである。ウール製と言っても、ピンからキリまであるのだと思った。そのフワフワした羊の毛の塊は、何度も機械にかけられ、糸のようになる。短い羊の毛が、どうして糸状になるのかと言うと、つまり「よじる」のである。そしてドンドン長く細くなる。よじってあるから、強さも増す。きっとコットンも、同じ要領なのだろう。なんせ羊の毛の塊を、「コットン?」と思った人間が、この世に一人はいるのだから。









ワトキンス氏は、労働者に社宅や賃金を保証したため、遠い所ではヨーロッパからも、就職願いの手紙が舞い込んだそうだ。その当時の女子にとって、花形の仕事だったらしい。しかし現代のように、労働環境に気を配るという概念は無かったから、病気になった人も多く、長く続けられる仕事ではなかったようである。紡績の工程で化学物質が発生するらしく、そこから病気になる人もいる。工場内には電気が無いから、陽の明かりだけで作業をしなければならない。暗い工場で大きな機械を運転するのは、危険が伴う仕事だ。機織りに使う木の棒が、ピューンと飛ぶこともあったらしい。飛んだ棒が当たり、壁には銃弾のような穴があいている場所もあった。


ガイドは、ワトキンス氏は研究熱心で、色の調合を書き付けたノートが残っていると言った。虫をすりつぶした赤とか、なんとかという葉っぱからとか、自然配合だったらしい。今の言葉で言えば、オーガニックといったところである。ミズーリ州原産の固い植物があり、それは、羊毛を整えるためのくし代わりに使われた。ガイドがそれを私たちに触らせてくれたが、まるで生け花の剣山のように固かった。その植物を鉄の棒の間に詰めて使うのである。私にとっては珍しかったので、写真を撮った。

工場内には、フエルト布を作る機械もあった。それまで、フエルトが羊毛で作られているとは知らなかった。フエルトは、圧縮されて作られることも知らなかった。知らないことだらけである。羊の毛と言っても、身体の部分によって品質の善し悪しが違うらしい。大抵は全部まとめて作られるのだが、お金持ちの客の中には、最上級品だけを注文する人もいたそうだ。

工場ツアーの最後は、ビデオに出ていた「お店」だった。近隣の農民が物々交換をした場所である。その場所は意外に小さく、薄暗い。この近辺では、ここが唯一の店だったと思うと、感慨深いものがあった。ここでツアーは終了し、ガイドに礼を言って、工場を跡にした。外に出るとまだ明るい。敷地内には羊が飼われていた。最盛期には五千頭もいたという。現在はのんびりと少数の羊がいるだけだ。私たちと一緒にツアーに参加していた夫婦が、手をつないで、緑のトンネルを歩いて行った。車に戻り、公園内の湖を少し見学した後、カンザスシティーに向けて、出発した。


2010年9月4日土曜日

ミズーリ州ウェストン



 カンザスシティーの北西に「ウェストン」という町がある。人口二千人にも満たない小さな町だが、歴史の紐を解いてみると、19世紀、ミシシッピー川流域では、セントルイスに次いで二番目に大きな都市だったという。その当時は、人口も五千人以上で、カンザスシティーよりも、遥かに大きな急成長都市だったそうだ。ミシシッピー川を行き来する蒸気船の港として栄えた。そんなウェストンも、洪水、火事、南北戦争等を経て、衰退の道を辿った。しかし昔の面影を残した建物が今でもたくさん存在し、歴史指定地区になっている。そんなウェストンに、8月のある日曜日、夫と一緒にドライブに行った。

 カンザスシティーの私達の自宅からは、車でおよそ30分くらい。程よいドライブの距離であるが、運転手の夫が、かなり前で高速を降りてしまい、ローカルの道を通ったので、1時間くらいかかった。しかし、カンザスシティーからウェストンまでの小さな町も見ることができ、私はかえって良かったと思っている。途中、小さな湖や、両側から木が垂れ下がった道が延々と続く所等を走り抜き、「今度、家を買い換える時は、この辺がいいかも」と考えた。

さて、ウェストンのダウンタウンに近づくと、なんだか黄色い畑が見えたので、それが何か確認するために、そっちの方に行くことにした。畑のすぐ近くに行くと、なんだかキャベツのような匂いがするというのが、素直な感想。これが何かと言うと、なんと「タバコの葉」!というのは、後で寄った店の店主が教えてくれたことだが、ウェストンは、「タバコ」で栄えた町でもあるそうだ。家に帰ってから調べたウェストンのホームページによると、19世紀、南部からやってきた「タバコ生産者」たちは、肥沃なこの土地でタバコの葉を生産した。しかし、タバコの葉を育てるのは大変な作業らしく、奴隷無しでは成算が立たず、堂々と奴隷制度が存在していたと言うから、驚きである。奴隷制度といえば、南部のプランテーションだけかと思い勝ちだが、こんな身近に存在していたとは、私にとってショックな出来事だった。以前私が住んでいたネブラスカではそんな話は聞いた事が無かったので、州を一つ超えただけでこんなに大きな差があるんだと、目を見開かされる思いである。ウェストンはミズーリ州だが、町の境界線となっているミズーリ川の向こう側はカンザス州。カンザスでは奴隷制度は禁止されていたので、カンザス州とは問題があったそうだ。













 さてダウンタウンは、そんな1800年代のアメリカの建物が残った可愛らしい町だ。駐車し、一番最初に入った店は、メインストリートにある「McCormick Country Store」。McCormickは、アメリカで最も古い蒸留所で、国の歴史指定建造物に登録されている。現在はここでは酒造されていないが、店には、McCormick社製のウィスキーや、グッズが売っている。行く前にウィスキーを作っているのは知っていたが、そのウィスキーが「ウォッカ」であるというのに、少々驚いた。酒に関する知識が薄い私にとって「ウォッカ」と言えば「ロシア」とてっきり思っていたが、アメリカでも製造されていたのだ。店の棚に綺麗に並ぶ瓶の中には、透明な酒が入っていた。「ウォッカ」を買う気にはならなかった私も、その瓶の可愛らしさには魅了され、空の瓶を一本買った。店の奥にはレジのカウンターがあり、「ウォッカ」の試飲が25セントでできる。他の客が小さなプラスティックのカップに入ったウォッカを試しているのを見て、私達も挑戦してみることにした。そのカウンターでは、味付きのウォッカがあり、その種類もかなりある。その中から、「紅茶味」を最初に試飲。一口飲んだだけで、喉にワァーっと熱いものが広がる。だから寒い国のロシア人が飲むのだろうかと思いながら、次は「オレンジ味」に挑戦した。こちらは紅茶味より薄い感じがし、私にとっては飲みやすい。そして、そこにいた店長から町の歴史を少々学ぶ。先に申し上げた黄色い葉が「タバコ」であると教えてくれたのは、この人だ。現在では、このタバコの栽培は厳しく監視されており、全て大きなタバコ会社に販売されているそうである。

 McCormick店を出て、メインストリートにある建物の写真を撮った。最初に目に付いたのが、白いファサードが美しいこのブロック造りの建物。インターネットで調べたら、「The Saint George Hotel」という現在でも営業中のホテルだそうだ。19世紀のウェストンは、色んな所から人が集まってくる都市だったので、このホテルの2階、3階が泊り客の部屋で、1階はサロン、行商人の商品陳列所、タバコを吸う部屋、レストラン等が入っていた。それは現在でも同じなようで、1階は今でもレストランや店が入っていて、2階、3階がホテルになっている。ホームページの写真を見たが、なかなか素敵なホテルである。ホームページは、こちら。http://www.thesaintgeorgehotel.com/




そのすぐ隣にあるのが、このおしゃれな建物。現在は、「Missouri Bluff Boutique」という、高級ブティックが入っているが、元々はウェストンのパイオニアの一人、"Boss" Nobelこと、"Wilson G. Nobel"が1844年に創設した「W.G. Nobel Saddley」というサドル屋から始まった。34年間営業した店は、他の者の手に移り、その後何度も所有者が変わりながら、現在のブティックに辿り着いたわけだが、こうして移り変わりを見ると、やはり一つの事業を維持するのは大変なんだなと思う。現在のブティック、Missouri Bluff Boutiqueのホームページはこちら。http://www.missouribluffs.com/



 その後、ウェストンで最も有名なワイナリー「Pirtle Winery」に向かった。マコーミックの店主の話によると、メインストリートから右に曲がって、突き当たりを左に曲がり、少し行った所にあるという。メインストリートを右に曲がるとすぐに、「バッファロー・ビル」が幼少の頃、夏を過ごしたという家があった。その家はバッファロー・ビルの叔父が所有していたらしい。その通りにも、1800年代に建てられた家がたくさん残っており、B&Bになっている所も多い。突き当たりに、見学したいと思っていたビール醸造社の「Weston Brewing Company」があった。道から見た様子は思ったより小さく、「営業しているんだろうか」と思うような雰囲気である。


Weston Brewing Company の角には、二軒のB&Bがある。イギリスの田舎の家のような佇まいは、「Inn at Weston Landing」だ。このB&Bは、その昔、Weston Brewing Companyの一部で、そのパーラーは「氷の家」だったと言うから、ここに川から切り出した氷を保管していたのだろうか。ホームページの写真は、どれも年代物に見える。週日であれば、2名朝食付きで90ドルというから、都会のホテルに比べれば破格値である。こういった所の朝食は、豪華でおいしいに違いない。インターネットにある観光客の評価もかなり高いので、泊まってみる価値がありそうである。


もう一軒は、「Hatchery House Bed and Breakfast」。ここが「The Hatchery(孵化場)」と呼ばれるのは、その昔、この建物がアパートだった時代があって、若い夫婦が多く住んだこともあり、たくさんの赤ん坊が生まれたからだという。





そこを通り過ぎて、次の角を右折した道に、捜していたワイナリーがあった。インターネットの写真で見た通り、元教会であったブロック作りの建物だ。その隣には、テーブルが置かれた庭があり、そこで食事ができるらしい。建物の前に、どこかで見覚えのある男性が立っていた。夫が私の耳元に、「うちの近所の郵便配達人だよ」と囁く。確かにそうである。そこで、私の方に振り向いた彼に、「郵便屋さん!」と声をかけると、彼も私たちが誰だか分かったらしい。横にいた奥さんに、私たちの住所まで言っている。観光地で出会った人に、自分が住んでいる家の住所を、そらで言われることは、早々あるわけではない。この郵便配達人、なかなかの好人物で、彼らと少々立ち話をした後、いよいよ、ワイナリーの建物の中に入った。



その建物は元教会だけあって、大きな木製の階段を上り、重い木のドアを開けなければならなかった。中は天井が高く、学校のような雰囲気である。アメリカでワイナリーと言えば、カリフォルニアのナパバレーを思い起こすかもしれないが、ミズーリ州にも、かなりたくさんのワイナリーが存在するのだ。ここでは無料のワインテイスティングができる。ワインテイスティング等をするのは、生まれて初めてだった。部屋の片隅にあるワインリストを一枚拾い上げ、ソムリエの前に行く。彼女は、私たち一人一人にワイングラスを用意し、まず最初に最もオーソドックスな白ワインを、グラスに入れた。
「辛すぎず、甘すぎず、クリーンな味」
とソムリエは表現する。なるほど、そうかもしれない。しかし、私にとっては、もう少し円やかさが欲しいところだ。このワイナリーのワインには、いろんな味が付いている。「ラズベリー味」だの、「チョコレート味」等がある。試飲をする度に、リストに点数を付け、最後に購入するワインを決める参考にした。やはり、高いワインの方がおいしい気がする。そんな中から、値段もそこそこで、円やか味のワインを二本選んだ。

ワイナリーを出ると、ちょうど夕食に良い時間帯だったので、食事をするため、「Weston Brewing Company」に行くことにした。Weston Brewing Companyとは、ドイツ人移民のJohn Georgian が1842年に創設したビール醸造会社で、アメリカで最も古いビール工場の一つらしい。彼は冬に川から切り出した氷を地下に保存し、ビール製造のために必要な低い温度を作るという、伝統的な技法を導入した。ここでは毎週土曜日にツアーがあるそうだが、その日は生憎日曜日だったので、ツアーに参加することはできなかった。そこにはレストランとパブがある。レストランの入り口側に回ると、道から見た雰囲気とは一変し、デッキにたくさんのテーブルが並んでおり、食事をしている人達がいた。建物の中に入ると、ちょうど食事を運んでいるウェイトレスが、私たちに声をかけてきて、中でも食事ができるという。建物の中をぐるりと見学した結果、奥の部屋で食べることにした。その部屋は小さめで、他の客はいなかったが、ランプが灯されており、何だか居心地が良い。行ったことはないが、アイルランドの酒場といった感じだ。BGMに流れるアイルランドの民謡が、リズミカルである。そこで私は、ウェイトレスが一番人気であると推薦した「フィッシュアンドチップス」を頼み、夫は「サーモン」を注文した。そして、そのWeston Brewing社製のビールに挑戦してみることにした。そのビールは、普通のビールよりかなり薄く、酒飲みでない私にとっては、飲みやすかったが、夫は「物足りない」と言った。ビールの苦さがおいしさの秘訣なのに、それが足りないと言う。しかし、夫が注文したサーモンはおいしかった。なんだか「照り焼き」のような味なのである。付け合わせのブロッコリーもおいしく、それなら私もサーモンを頼めば良かったと思った。壁に一枚の絵が掛かっている。最盛期のウェストンのダウンタウンの様子なのだが、その奥には、川のようなものが描かれていた。さっき見たダウンタウンに、川は無かったはずなのになと思い、ウェイトレスに聞いてみると、彼女も詳しくは分からないと言う。後にインターネットで調べてみると、ミズーリ川は何度もその流れを変えており、昔は、ダウンタウンの近くに船着き場があったようだ。たった一枚の絵画に、そんな歴史が隠されていたのだ。






レストランを出ると、外はまだ明るく、パブの方にも寄って見ることにした。ドアを開けると、まず地下に続く階段がある。その階段を降りると、右に曲がるトンネルがあった。アメリカで、こんな「歴史」を感じる場所は初めてだった。暗いトンネルの奥にある洞穴のような部屋で、陽気なアイリッシュミュージックを奏でる男が、歌を歌っている。彼の衣装もアイリッシュ風で、観客が彼の歌に合わせて掛声をかけたり、手拍子をたたいたりしている。映画で見るアイルランドのような光景だった。ここでこんなエンターテーメントがあるなら、レストランに行かず、直接このパブにくれば良かったと思った。しかし食事をした後だったので、そこで長居すること無く、家に帰ることにした。10月には、「アイリッシュフェスティバル」がその敷地内で行われるらしいので、また行きたいと思った。ウェストンは、とても良い町だ。