ベイルマンションを見学した私達は、その後、「刑務所」を探していた。19世紀の刑務所がインディペンデンス市に保存されており、その時の様子を学べるという。しかし、その刑務所を探して街中をウロウロしている間に、上の写真の建物を発見した。それは、インディペンデンス市観光局のホームページに載っていた、観光スポットの一つだ。どうせなら、ここで少々写真を取らせてもらおうと、車を降りて、建物の中に入ることにした。
重いドアを叩いて、中に入ってみる。初めは無人の建物かと思い、本当に、写真を一、二枚取るだけのつもりだったのだが、中には、初老の男性ガイドが居た。随分、慇懃に私達夫婦を招きいれてくれて、ベンチに座るよう勧めてくれる。それで、「少々、ご説明いたしましょうか?」というガイドに、「どうぞ、お願いします」と言うと、それからなんと2時間のツアーが始まるのである。
「シカゴ・アンド・アルトン」とは、イリノイ州アルトンから発した鉄道会社の最終社名。設立されたのは、1847年だが、最初の列車がアルトン市内を走ったのは、1850年だったようだ。その当時の社名は、「Alton & Sangamon Rairoad」。その後、何度か社名を変え、最終的には、「シカゴ&アルトン」という名になり、路線も、シカゴからセントルイス、そしてカンザスシティーまで延びていたらしい。
(その当時の鉄道マップを見たい方は、下のウェッブサイトをご参照ください。)
http://www.chicagoalton1879depot.org/route.html
しかし「シカゴ&アルトン鉄道」は、1931年、他社に買収される。このインディペンデンスにある「デポ」は、1879年に建てられたシカゴ&アルトン鉄道の駅だった建物で、1996年に現在地に移された。1879年に建てられたといっても、現在の建物は、大々的に修復されており、ペンキが塗られ、随分新しく見える。しかし駅が見捨てられた当時は、荒れ果てた様子だったらしい。
ブラッド・ピット主演映画、「ジェシー・ジェームスの暗殺」のジェシー・ジェームスは、この「シカゴ&アルトン鉄道」の「グランビュー駅」付近で、何度か強盗を果たし、その付近は危ないと悪評が高くなったため、グランビュー駅は名前を変えなければならなかったという。確かに、ジェシー・ジェームスは、ミズーリ州出身で、私達が住むカンザスシティの北に、彼の生家があり、現在は博物館になっている。なので、この付近で、彼が強盗を働いていたというのは、納得がいく歴史だと思った。
最初に入った場所は、上の写真のような、駅の待合室だった所で、ここからツアーは始まった。
上の写真にあるポスターが、待合室に飾られている。何でも、この男性ガイドが、ガレージセールで見つけたらしいのだが、これが「シカゴ&アルトン鉄道」の広告だったらしい。優雅に女性が座っている椅子、実はアルトン&シカゴ鉄道の路線図を表している。この女性、実在した女性で、有名な女優だったらしい。ポスターの下にある写真が、モデルとなった女性だ。
待合室から一歩入ると、そこは駅長室だった。ガイドの話を聞いていると、どうやら、この建物の中にあるものの殆どは、彼自身が収集したか、誰かが寄付したものらしい。ということは、彼が、この小さな博物館を創設した人物と言っても良いのではないかと、ツアーを聞きながら思った。道理で、説明の熱の入り方が違う。駅長室には、机の上に、整理棚があり、それは元々、この駅に属するものでは無いが、彼が誰かから買ったと言っていた。上の写真は、モールス信号を発する装置。確かこれは、この駅に属する物だと思う。
私が個人的に一番感動したのが、この電話。この近辺で、当時電話があったのが、確か12軒だか、22軒だか、とにかく極限られた数だけだったとガイドは言っていた。その中の一つがこの駅の電話だ。極僅かな電話所有地の一つが、「サロン」だったというから、当時の生活がわかるようだと、彼は言っていた。私が個人的に電話に感動したのは、「電話が一般人に普及したのは、いつ頃なのか?」という疑問をずっと持っていたから。これまた、話は過去の旅行に遡るのだが、ルイジアナ州のプランテーション「ローラ」のオーナー、ローラが書いた本には、たまに、"she called her"といった表現が出てくる。現在なら、「彼女に電話した」と訳せようが、19世紀のルイジアナで、いくらお金持ちとは言え、電話があったのだろうかと、ずっと長い間、沸々と自分の中で、考えていたことだった。"She called her"とは、「電話した」のか、それとも誰かメッセンジャーが居て、その使いを送り出したという意味なのかと、真剣に考えていたのだ。しかし、1879年に建てられたこの駅の近辺に、電話を所有している建物が僅か数軒しかなかったとしたら、19世紀のルイジアナのプランテーションで、電話が普及していたとは、考えられない。なので、私の中では、「電話は存在しなかった」と、勝手に結論付けた。その結論(事実の程は知らないが)に到達させたのが、この電話だ。
こちらもとても感動したのだが、なんとエジソンが発明した電池である。「エジソン・アルカリ電池」と呼ばれていたらしい。こうしてみると、「駅」は、当時の最先端のテクノロジーが集結した場所だったのではないだろうか。
この駅舎の中には、色が付いたランプが沢山あった。現在の信号と同じで、青が進め、黄色が注意、赤が止まれで、鉄道員が、ランプを持って運転手に知らせていたと言う。
二階は、駅長の家族が住んでいた場所だった。駅長と言っても雇われ人で、契約を結んで働いていたらしい。そこは、ガイドが収集した当時の家具が沢山あった。最初に入った部屋はキッチンで、そこには、この前に行った「ベイルマンション」にもあった、氷を入れて冷やす木製ドアの冷蔵庫があった。何でもこの当時は今と全く違い、ドアの鍵はかかっておらず、牛乳や氷の配達人は、人が居なくても、客の家のキッチンに入り、冷蔵庫に配達物を入れて、後に集金に行ったらしい。現在のアメリカからは考えられないが、そういった「人を信用できる時代」というのは、とても良いものだと思った。
実は、このツアーの途中、小柄な老齢の女性二人が、私達のツアーに加わった。彼女達にすると、そこにある物は、どうやら、珍しい物ではなく、「昔家にあった物」だったらしく、私が、「わ~、レトロ!」と感動したキッチン用具や小麦粉のパッケージ等(日本のアンティークコレクターなら、絶対に狂喜乱舞するような代物!)を、「知っていることが、少々恥ずかしい」といったような、微かな笑いが彼女達からもれているのに気付いた。大きなキッチンストーブ(コンロ)の上に、棚があった。そこに古いポットがあり、豆のスープ等を温めて保存するのに、使われていたということだ。こういう古いキッチン道具を見ると、現在のアメリカのキッチン用品が、どうしてそのようになったのかが解り、私にとって、大変興味深いものだった。なので、その老女達が「恥ずかしそうに笑う必要など無いのに」と、私は思った。
キッチンの隣にはダイニングルームがあり、その奥にベッドルームがある。ベッドの両脇には、大きな「夫」の写真が右側に、「妻」の写真が左側にあった。その写真はこの駅舎に住んでいた人々ではないのだが、その当時、写真をこうやって飾るのが習慣だったので、飾ってあるという。この駅舎の二階は、駅そのものに属するものでは無いが、その当時の習慣を説明するのに役立つ品々で溢れていた。その中で私が驚いたのは、特別な「眼鏡」だった。その眼鏡をかけて写真を見ると、「3D」のように、遠近感があるように見えるのだ。こんな昔に、3D眼鏡が既に発明されていたなんて、随分驚きだった。
二階の一番奥の部屋には、鉄道に関する品々が展示されていた。左の絵の中の人物が何をしているのかというと、鉄道から下された荷物を受け取っているのだ。これもルイジアナのプランテーションオーナー、ローラが書いた本に、このような場面が出てくる。彼女が言っていたのは、船から降ろされる手紙の事だったのだが、このように書いている。
「電報など無い当時、ニュースが届くのは本当に遅く、長い釣竿で陸地に渡された手紙を、黒人か配達人が拾いにやって来るといった状況だったのだ。」
これと全く同じように、鉄道でも、配達物を長い鉄の棒に引っ掛けて、下に降ろす。その作業に使った棒も、この博物館には残っていて、私は、「ローラが言ったことは、本当だったんだ」と、随分感動した。多分、ここを訪れる観光客で、この黒い古びた鉄棒に、これほど感動する人は、きっといないだろうと思うほど、私は感動した。
私は古い人物写真が好きだ。過去のドラマが凝縮された一瞬。そんな写真が、この博物館の壁にあった。鉄道を実際に建設した人々。
リンカーン大統領は、ワシントンDCで暗殺された後、彼が州知事を勤めたイリノイ州スプリングフィールドに埋葬された。彼の遺体を運ぶのに、「シカゴ&アルトン鉄道」が使われたらしいのだが、列車の車両が鉄道の線路より大きかった為、リンカーン大統領輸送の為だけに、線路のサイズを直したという。随分、ご苦労なことだと思った。
最初、この小さな博物館にガイドがいることすら期待していなかったのだが、私が興味を持っている時代に関する情報が凝縮していたので、私にとっては、随分実りの多いツアーとなった。
2011年12月27日火曜日
ミズーリ州インディペンデンスの旅2:Chicago & Alton Depot
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿