2010年7月2日金曜日

チャイナタウンと、リトル・イタリー



バッテリー・パークを後にした私たちは、すぐ近くにあった「サウスストリート・シーポート」まで歩いて行った。博物館があったので中に入りたかったが、閉館後だった。そこでずんずん奥まで進むと、船がある場所があり、その前で手品師がマジックを披露していた。なかなか楽しい芸当だった。客から預かった指輪が消えたと思ったら、どっかから出て来たとか、そういった手品である。一生懸命、タネ明かしをしようと試みたが、全くわからなかった。手品の後、ピア17というショッピングセンターのような建物に入り、しばらく見学した後、突然、ブルックリン橋が目の前にあった。私にとって、このサウスストリート・シーポートでのハイライトは、このブルックリン橋である。

この後、又ダブルデッカーバスに乗った。バスは、チャイナタウンを通過した。そこにある建物自体は、ニューヨークによくある19世紀か20世紀初頭の美しい建物だったが、看板は中国語だった。中華料理店の看板だけでなく、米企業の看板も中国語で書いてあるので、妙な感じがした。たまに見るスペイン語チャンネルで放送される、スペイン語のコマーシャルを見る感覚と言うか、確かに奇妙だ。中西部にはない光景である。ここでチャイナタウンに行こうと夫に提案し、チャイナタウンの東端でバスを降りた。

チャイナタウンは、いい。やはり、アジア人の私にとって、何とも居心地が良いのである。道端で売っている野菜等を見ると、日本の商店街を見ているような感がある。こんなことなら、アメリカにはどこにでもあるショッピングセンターのピア17等に寄らず、ここに直接くれば良かったと思った。夫はきっと、そのようには感じなかっただろうが、私は故郷に帰ったように、のびのびとした気分になった。しかし、その頃には、既に閉店になっている店が多かったので、適当に歩いた場所にあった中華料理屋に入ることにした。この時何を食べたか、覚えていない。たしか、麺類だったと思う。そして、水餃子も頼んだように思う。夫と二人、お腹いっぱい食べて、13ドルくらいだった。目を疑う安さだった。これでは、カンザスシティーにあるアメリカナイズした中華料理店より、遥かに安い。ニューヨークに来て、初めて「安い!」と思った瞬間だった。ニューヨークで食事をするなら、絶対チャイナタウンに行くべきである。

プラプラ歩いていると、洋服店があった。夫がそこに入りたいというので、店の中に入った。そこは、男性服と女性服の両方があった。鞄もあった。夫は少々鞄等を見た後、外に出ようとした。その時、背後から、店主が中国語で私に話しかけてきた。私は日本にいた時、少々、独学で中国を勉強したことがあったので、彼の最初の言葉が、「お嬢さん!」だったのがわかった。彼は鞄を差し出しながら、笑顔で何やら中国語を話している。たぶん、「この鞄はいかがですか?お安くしときますよ」ということだろうと思った。笑顔で「結構です」と、英語で答えた。

横浜の中華街は、完璧に観光地であるが、ニューヨークのチャイナタウンは、コミュニティーという感じがする。美容院や食料品店など何でもあり、ここだけで生活ができそうだ。道に行き交う言葉も、ほとんど中国語である。アメリカにいるのを忘れそうになる。これは私にとって、かなりカルチャーショックであった。町の至る所から、おいしそうな匂いがする。こんな所に住めたら天国ではないか!それなら香港にでも移住すればよいと、言われるかもしれないが、アジア人のコミュニティーがあるというのは、私にとって大変うらやましい。



しかし道を一本出ると、突然「リトル・イタリー」になる。本当に、突然、変わるのである。通っている人達が、突然「白人」に変わる。「わー、アメリカに帰ってきた」という感じである。今までの中国ムードが一掃する。道一本隔てただけで、こんなにくっきりと分かれているというのは、私にとって、少々ショックだった。チャイナタウンが「庶民の町」であったのに対し、リトル・イタリーは観光地だと思った。お店もなんだか高級そうに見える。私は下町のイメージを持っていたので、これはかなり意外だった。リトル・イタリーと呼ばれる地域は、とても小さい。せいぜい2ブロックくらいでは、ないだろうか。そこにイタリア料理店が、ずらりと並んでいる。食事をした後だったので、ここでは何も食べなかった。ここでしばらく観光客やレストランを鑑賞した後、地下鉄に乗って、ホテルに帰ることにした。


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