2010年3月17日水曜日

セントルイス旧裁判所



 この日で、今回の旅も終了です。私達がセントルイスで行った場所は、「ゲートウェイアーチ」でもなく(と言っても外から見ましたが)、「ルイス&クラーク」の博物館でもなく、野球場の「ブッシュスタジアム」でもなく、「セントルイス旧裁判所」でした。なぜここに行ったかというと、南北戦争の引き金の一因になったという「ドレッド・スコット対サンドフォード裁判」が、このセントルイス旧裁判所から始まったからです。現在、この裁判所は博物館になっています。


 「ドレッド・スコット」は1800年頃、バージニアで奴隷として生まれました。最初の主人ピーター・ブローが1818年に納税のために申請した「所有品」リストの中に、スコットは「18才以上の奴隷」として登録されています。(つまり、家畜や物と同じ感覚で、スコットは所有されていたのです。)ピーター・ブローの死後、1833年にスコットは「ジョン・エマーソン」という軍隊の医師に購入されました。この医師と一緒にドレッド・スコットは、自由州であったイリノイ州に1833年から1836年まで住みます。この時点でスコットは、法律的に自由の身になるべきなのですが、当時のスコットは、そのことを知らなかったのか、単にジョン・エマーソンの下で働くことに苦痛を感じなかったのか、自由を求めることはしませんでした。その後、この二人は、議会で奴隷制度が禁止されていた地域内にある、現在のミネソタ州に移ります。そしてドレッド・スコットは、「ハリエット・ロビンソン」に出会い、結婚。その後、二人の娘を授かります。

一方、主人のジョン・エマーソンは、エリーザ・アイリーン・サンフォードという女性と結婚しますが、40歳の若さで、突然この世を去ります。未亡人となったエリーザは、夫の財産を相続し、ドレッド・スコットと、彼の家族は彼女の所有物になりました。ジョン・エマーソンは彼が他の地で勤務している間、そして妻のエリーザは彼の死後、ドレッドを他の人に「貸し出し」、ドレッドの働いた分は、彼らの収入として受け取りました。こういった生活をしている中、ドレッド・スコットは1846年、エリーザ・アイリーン・サンフォードを相手に、家族全員の自由を求めるため、裁判に訴えます。彼の言い分はこうです:

ドレッド:自由州であったイリノイ州とミネソタ州に住んでいたため自由。
妻のハリエット:自由州のミネソタに住んでいたため自由。
長女:自由準州であるウィスコンシン・テリトリーで生まれているので自由。
次女:自由人の母から生まれているので自由。

ドレッド・スコットがこのように裁判に訴えることができたのは、白人の支持者がいたからです。ドレッドの最初の主人ピーター・ブローの息子は、奴隷制度廃止論者の弁護士をスコット一家のために雇いました。



 最初のセントルイスでの審判はドレッド・スコットの意見を支持。ドレッド・スコットは自由であると宣言します。しかしそれを不服としたサンフォードは、上訴します。サンフォードの本当の綴りはSanfordなのですが、裁判所の記録係がスペルを綴り間違え、Sandfordと記録されました。なので、裁判名を言う時は、「ドレッド・スコット対サンドフォード」(Dread Scott v. Sandford)となるそうです。エリーザ・アイリーン・サンフォードは、裁判を抱えたまま、マサチューセッツ州の医者と結婚し、1849年か1850年に、セントルイスを離れました。その後、彼女の弟がこの裁判を引き継ぎ、まるで代理人のように振舞ったと言います。1852年ミズーリ州最高裁判所は、一審の判決を翻し、ドレッドは自由ではないと言います。1854年、ミズーリ州の連邦裁判所の裁判長ロバート・ウェルスは、ミズーリ州最高裁が、スコット一家は自由ではないと決定したのだから、彼らは奴隷のままであるとしました。その後、合衆国連邦の最高裁判所に訴えるのに、ドレッドの最初の主人の息子は、資金を調達できなくなるのですが、モントゴメリー・ブレアーという弁護士が、無料で弁護することを申し出ます。11年かかって出た最終判決は、何か。最高裁の裁判長ロジャー・テイニーは、このように結論付けます。

1. 黒人は自由人も含め、アメリカ国民ではなく、よって裁判に訴えることはできない。
2. ミズーリ妥協(ミズーリから北西の地域は、自由の土地)は、正式な法律ではなく、議会はこのテリトリーでの奴隷制度を禁止する権限を持たない。

そして、「アフリカから奴隷として連れて来られた奴隷の子孫達は、劣った人種で、社会的にも政治的にも、白人社会に溶け込むことは、到底できない。その劣等性はあまりにもひどく、白人男性が持っているどの権利も有することはなく、黒人は社会的にも、法律的にも、奴隷として留められるべきである。」などと、今の私達からは考えられないような発言をしています。このドレッド・スコット裁判の判決は、スコット一家だけの問題ではなく、アメリカ国民と政治家達の間に、大きな波紋を呼び起こし、リンカーン大統領が当選してからは、南北戦争が始まります。南北戦争はもちろん、この判決だけによって起こったわけではありませんが、スコットの裁判は、奴隷制度廃止運動に大きく拍車をかけたと言えます。

 裁判には負けてしまいましたが、ドレッドの最初の主人の息子が、エリーザ・サンフォードからスコット一家の所有権を買い上げ、その後自由人として解放しました。しかしドレッドはその後長生きすることなく、翌年亡くなります。彼が起こした裁判は、最も悪名高き判決として、アメリカ裁判史上に名を残しました。

以上、セントルイス旧裁判所で買った「Dored Scott v. Sandford A Brief History with Documents」(著者:Paul Finkelman)という本から、「ドレッド・スコット対サンドフォード裁判」の歴史をまとめてみました。

 
 ゲートウェイアーチの反対側にある入口から旧裁判所に入ると、ホールに奴隷制度に関する展示がありました。夫は博物館に入ると、全ての展示を読もうとする傾向があるので、ちらちらと目を通した後、私は夫を残して、展示室の中に入りました。そこには、ドレッド・スコットの歴史、裁判の様子、判決を出した裁判官達の写真などが展示されていました。その奥には、裁判所を再現したかのように、高い段の上にある机がありました。


 旧裁判所の建物の中央には、大きな吹き抜けになったホールがあり、天井には美しい壁画が描かれています。ここはきっと、ドームの下にあたるのでしょう。ここで写真を撮っていると、制服を着た職員がいたので、ツアーがあるか聞いてみると、「午後になるまでツアーはないが、向こうの部屋でドレッド・スコットに関するビデオを見ることができる」と教えてくれました。そこで夫を引っ張ってその部屋に行き、ビデオを鑑賞。ビデオはやっぱりビジュアルエイドなので、展示物よりわかりやすく、大変勉強になりました。


 そして二階に上がり、実際に「ドレッド・スコット対サンドフォード裁判」が行われた部屋と同じ造りの部屋を見学。こんな風な所で裁判が行われたのかと感動です。この旧裁判所には、ドレッド・スコット裁判以外の展示物もあり、アメリカ開拓時代のセントルイスの様子が学べます。

 この後、ギフトショップで、上の歴史のまとめに使った本を購入。この裁判所は博物館になっているため、管轄が隣にある「ルイス&クラーク」の博物館と同じなのか、ルイス&クラークに関する本もたくさんあり、ここで前から読みたいと思っていた彼らの日記と、彼らが辿った道を紹介するガイドブックも買いました。私がアメリカで最初に住んだネブラスカ州オマハと、現在住んでいるミズーリ州カンザスシティーのどちらにも、ルイス&クラークは訪れており、特にカンザスシティーは「ケースパーク」という公園もあるし、街のいたる所に「ルイス&クラーク探検隊が通った道」という標識が出ているので、アメリカ大陸を始めて陸路で横断したルイス&クラーク探検隊の話には、興味がありました。なので隣にあるルイス&クラークの博物館にも行きたかったのですが、夫が早くカンザスシティーに帰りたいと言い出したので、敢え無く断念。あー、また心残りのある旅になってしまった。



 しかし、ここでも「せめてランチだけは、食べて行きましょ」という誘いには乗ってくれたので、旧裁判所のすぐ前にある「Caleco's」というレストランに入りました。そこはパッと見、「バー」という感じなのですが、メニューを見るとしっかり食事ができそうです。そこでルイジアナ帰りの私は、「ケージャンパスタ」をいただくことにしました。これは大当たり!セントルイスに行ったら、また絶対食べたい一品です。

 こうしてまた、4時間ほどドライブし、カンザスシティーまで帰りました。

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