2011年10月29日土曜日

アイリッシュ・フェスティバル



 先日、カンザスシティーの自宅から30分程の所にあるミズーリ州ウェストンで行われた、アイリッシュ・フェスティバルに行ってきた。夫に初めて「ウェストンでアイリッシュ・フェスティバルがあるらしいけど、日曜日に行く?」と聞いた時、彼はそれほど興味があるようには見えなかったのだが、どうやら会社の人達に行くことを自慢する程、本当は楽しみにしていたらしい。普段、夫がアイリッシュ系であることを、それほど意識することは無いのだが、やはり、自分のルーツを見るのは嬉しいものなのかもしれない。

 ウェストンには二年前にも行っているので、行き方は分かっていた。高速道路を降り、ウェストンの歴史地区方面に行くと、所々の民家で、私達に手を振る人達がいる。何事かと思えば、このフェスティバルで小遣い稼ぎをしようとする家主が、「仮設駐車場」として開放している前庭に、客を引こうとしているのだ。店番をする子供達の前には、「一台五ドル」と書かれた段ボール箱の切れ端があった。それが、フェスティバル会場に近づくほど値上がりするのか、会場付近では10ドルになっている。そんな客引きに簡単に引っ掛かりそうになる夫を制御し、「とにかく会場まで運転を」と急かせた私の努力が実り、会場の「ウェストン・ブルーイング・カンパニー」がある道まで来た時、丁度そこを出発しようとする、路上駐車の車を発見した。その車が出て、すかさずスポットを確保する。途中で無駄金を使わず、本当に良かった。

 さて会場の入り口で、問題発生である。入場料は、大人一人10ドルということだが、私達の有り金全てかき集めても、16ドルしかない。ここでどうしたかと言うと、夫は正直に、「16ドルしか無い」とチケット売りに言った。するとチケット売りは、「オーケー」と言って、私達をすんなり中に通してくれたのである。この手がいつも通用するとは思わないが、カンザスシティー近辺では(つまり、良い人が多い中西部の田舎では)、成功する確率もかなり高く、私達は過去に何回か、入場料不足にもかかわらず、入場に成功している。しかし、途中で駐車代に10ドルも払っていれば、とてもじゃないが、トライさえもできなかっただろう。




 無事入場し、さて、まず腹ごしらえをしたいところだ。フェスティバルでアイリッシュの食事が売られる事を知っていたので、私達は食事をせずに、自宅を出ていたのだ。会場内のテントでは、クレジットカードが使用できる。食事の販売は、チケット制になっていた。「コンビーフサンドイッチ6枚」といった感じである。そこで一枚1ドルのチケットを、30枚購入した。食事コーナーのメニューは、「アイリッシュシチュー、ダブリンコドル、コンビーフサンドイッチ、ベークドポテト、ポークサンドイッチ、ホットドッグ、バンガーズ、ナチョス、アップルフリッター、チョコレートチップクッキー」という事だった。最初の二つ、「アイリッシュシチュー」「ダブリンコドル」は、アイルランド系のシチューで、「バンガーズ」というのは、ソーセージらしい。夫はこのバンガーズとホットドッグを、私はコンビーフサンドイッチを注文した。このコンビーフサンドイッチに、ザワークラウトを加えて食べた。夫が注文したバンガーズを一口食べさせてもらったが、随分おいしいソーセージだった。




 会場はアイリッシュ系パブの駐車場で、ワンサカと人がいた。キョロキョロと辺りを見渡しても、ステージ前に空いている椅子が無い。それでパブの建物がある壁に座る事にした。ここで音楽を聞きながら、テントで買った食事を食べた。




ステージで歌う女性グループは、どうやら全員アイルランド人らしく、イギリス英語のようなアクセントで話した。こんな小さな町のフェスティバルに、わざわざアイルランドから招待したのだろうか。彼女達の音楽は、現代的なものが多かったが、中にはアイルランドの伝統的な音楽も演奏してくれた。私としては、せっかくアイリッシュ・フェスティバルに行ったんだから、アイリッシュミュージックを聞きたいと思っていた。

 会場の客の中に、「葉巻」を吸っている人達がいた。後に写真を整理していた時に気付いたのだが、まるで野球場でホットドッグを売るように、首に紐をかけ箱を持った女性が、葉巻を客席で売っていた。アイルランド人は、葉巻を吸うのが当たり前なのだろうか。

 座っているのにも飽きたので、出店を見学に行く。プラプラと歩いてステージ前に居ると、ある男性が私に声をかけてきた。なんとそれは、前回ウェストン訪問の折り偶然出会った、私達の郵便配達人であった。私達の住所をそらで言える、あの郵便配達人である。私達夫婦がウェストンに行ったのはたった二回だけなのに、その二回とも、同一人物に会うというのは、なんだか不思議な縁である。(その時のブログです。http://durbinswalkontheearth.blogspot.com/2010/09/blog-post.html




 女性バンドの後は、カンザスシティーのバグパイプクラブによる演奏があった。こちらの方が、私の趣味に合っていた。「アメイジング・グレース」等、大変美しい演奏であった。


























 この後、今度はアイルランドのアクセサリーやTシャツ等を売る店を見学した。店の中に、「アイルランド人お断り」と書かれた張り紙のようなラベルがあった。昔、このような張り紙は、ロンドンやシカゴ等で、実際に貼られていたと言う事だ。人種差別されたアイルランド人の歴史の一部である。現在、アメリカでアイリッシュ系のお祭りが盛大に行われるのは、こういった歴史の跳ね返しだと思う。「アイルランド人であることを、誇りにしよう」と言う事だと思う。




 店の前に、アイルランド系の名前が書かれた緑色のラベルがあった。私がアメリカの大学で取った「アイルランド文学」の教授は、例えば「マクドナルド」等、上に”Mc”が付く名前は、アイルランド系である事を教えてくれた。O’が付く名前もアイルランド系である。




 女性グループの後に出演していたグループ。彼らもアイリッシュ・イングリッシュを話す人達だった。彼らは、もう少し伝統的なアイリッシュミュージックだったと思う。




 パブの建物の中でも演奏が行われているようだった。ここのレストランで、前回食事をしたのだが、パブの中は全て見なかった。それで、洞窟のような古いレンガ造りの奥深くに降りて行くと、一番下の部屋には、アイルランドの民族衣装であるチェックのキルトを履いた男性グループが、アイルランドミュージックを奏でていた。




 このパブがある建物は、その昔、ビールが製造されており、確か週一で見学ツアーがあるはずだ。地下深くに作られた部屋は、誰も居なければ、牢獄のように見えるのではないだろうか。





 この後、カンザスシティーに向けて出発した。

2011年10月21日金曜日

ウィルソンズ・クリーク国立戦場跡2



 博物館の見学を終えても、まだ夫が戻ってくると予告した時間まで間があったので、外の戦場跡を一人で歩く事にした。この時は春の先駆けで、新緑が美しい季節だった。この戦場跡地は、車でスポットまで行き、見学後、また次のスポットに移動するという、個人見学の形式を取っている。本来であれば車一台に付き10ドルの入場料が取られるのだが、150周年記念のため、これも無料だった。そこで私は、ビジターセンターで貰った無料の地図を片手に、テクテクと、アスファルトの車道を歩き始める。公園内の道なので、それほど車が通るわけではなく、安全に歩けた。時折、地元の人なのか、ジョギングをしている人とすれ違った。夫が迎えに来る時間が気になったので、とにかく第一番目のスポットまで歩いて、その後引き返し、車で一緒に全部見れば良いと思った。




 歩いている途中、川があった。これが「ウィルソンズ・クリーク」だろう、と思った。この地で、二千五百人以上もの兵士が死んだとは信じられない程、そこは、あまりにも長閑で美しかった。

 小さな駐車場がある第一番目のスポットは、「ギブソンの麦畑」だった。一枚説明書があったが、内容は覚えていない。周りは何か特別な物は無かったが、そこから続く小道を行くと、「ギブソンの家」に辿り着くらしい。そこからは車で行ける道ではなく、歩いて行かなければならない。傍らには、小学生の女の子二人とその父親が居た。父親が「ここからは歩いて行くんだね」と言うと、娘が、「どのくらい?」と聞く。父親が「1マイルくらいだよ」と言うと、娘は「そんなに歩きたくない」という。 公園全体の車道距離は5マイルくらいだが、車から降りて、全てのスポットを見ようとすると、かなりの歩行距離になると思う。私はここで引き返し、ビジターセンターの入り口で夫を待とうと、元の道を戻った。

 ビジターセンター前のピクニックテーブルで本を読んでいると、やっと夫が戻って来た。友人は誰かに会う約束があったらしく、あまり長い間話しはできなかったと言う事だ。それで早速、夫のピックアップトラックに乗り、戦場跡コースへと出発する。車窓から見る風景は、歩いている時と違って見えた。あまり感動しないのである。やはり自然を本当に楽しむには、実際に歩いてみないといけない。



 二番目のスポット「Ray House」に行く。ここは、このウィルソンズ・クリークに住んでいた「レイ家」の家だ。この家主John Rayは、テネシー州出身と言うので明らかに南部出身者で、二人の奴隷を所有していた。この地方の他の農民達よりはある程度裕福で、少なくとも八種類の農作物を作り、400エーカーの土地、五種類の家畜、そして奴隷を所有する他に、Julius Short(という多分、白人男性)を雇っていたという。こう書けば、「南部支持者」の典型と思われるかもしれないが、なんと、レイ家は北軍支持者だったのである。南北戦争時代のミズーリ州では、奴隷を所有していたから南部支持者で、奴隷を所有していなければ北軍支持者とは、言えなかったらしい。その典型例がジョン・レイで、彼はアメリカ合衆国(つまり北部の手中下)が運営する郵便システムを支える「ポスト・マスター」を務めていたのである。アメリカの郵政省は、1856年に設立されたそうだが、ジョン・レイは、ウィルソンズ・クリーク村の「郵便預かり屋」をしており、近隣の住民は、一週間に一度届く郵便を、レイの家まで取りに行っていたのだ。このような職務は、南部支持者ができる事ではなく、ジョン・レイは奴隷所有者でありながら、北部を支持していたのは明らかだ。



 1861年8月10日早朝、牧場で働いていたジョン・レイの三人の子供達は、馬の背に乗った兵士に、戦争がすぐに始まる事を警告され、それを両親に告げる。ジョンの妻ロザンナは、子供達、奴隷、そして雇い人のユリウス・ショートを連れて、地下室に逃げ込み、ジョン・レイは、自分のトウモロコシ畑で起こっている戦闘を目撃する。この戦争で怪我をしたレイ家の者はいないのだが、北軍が”Bloody Hill”からぶっ放した大砲は、レイ家の鶏小屋に命中する。南部軍の医者が「戦地病院」を示す「黄色い旗」をレイの家に掲げた為、その後は大砲の標的となる事は無かった。



「ウィルソンズ・クリーク1」で、上の写真は、北軍兵士達の制服が青かった事を説明する為に掲載したが、実はこの絵、北軍兵士達が通り過ぎてゆくのを目撃するレイ家らしい。現在、鶏小屋は無いのだが、確かに絵の中には自宅以外の建物があるので、その中の一つが鶏小屋だったのだろう。

 戦闘が静まるや否や、レイ家の納屋は、死傷者が運ばれる病院と化す。レイ家の家族も、井戸から水を運ぶ等、手当の手伝いをしたようだ。後に北軍将軍ナザニエル・ライヨンの遺体も運ばれ、妻のロザンナが、遺体を巻くベッドシーツを提供する。ここで興味深いのは、レイ家では、南北両軍の兵士達が、治療されたと言う事である。さっきまで殺し合いをしていたのに、すぐに仲良く一緒にいられたのだろうか。その当時「捕虜」という概念は、存在しなかったのだろうか?

 このような仮設病院となったのはレイ家だけでなく、ウィルソンズ・クリークのあちらこちらの家に、黄色い旗が立った。

 レイ家の家畜は全て、兵士達に略奪されたと言う事だ。

 レイ家の見学後、夫が「そろそろカンザスシティーに帰らないといけない」と言い出したので、残念ながら他のスポットは、車窓から見学するだけにとどまった。こうして、3時間程ドライブして、カンザスシティーに戻った。

2011年10月16日日曜日

ウィルソンズ・クリーク国立戦場跡1



 ブランソン最後の日の朝、私達には、この地でやらなければならない事が残っていた。それは、前夜の「ショージ・タブチ」のチケットを、払い戻ししてもらう事だ。あのいい加減なチケット売りのおかげで、夫が一番楽しみにしていたショーに行けなかったのである。割引チケットは、翌日「タイムシェア」のセミナーに参加することが条件となっていたが、この惨事に、そんな物に参加する気は毛頭無いと告げる決意を、私達はしていた。

 カウンターで随分待たされ、やっと出てきたマネージャーは、随分横柄な印象を受ける女性だった。夫は、「今日、セミナーに出るつもりはありません。100ドル返してもらって、とっとと帰ります」と言っている。ちょっと待った、と妻は思った。「100ドル」とは、あまりにも謙虚過ぎると言う話しである。ショージ・タブチのチケットは、二人で100ドル以上するのだ。せっかくのブランソン旅行を打ち壊しにされただけでなく、損をしなければならないなんて、そんなのは言語道断!と、私は、カウンターから身を乗り出して、交渉に入った。「私達がショージ・タブチのショーを見れなかったのは、私達の責任ではなく、あなたの従業員のミスのせいです。それさえ無ければ、私達は、ショーを十分に楽しめたはずです。その最後の夜の楽しみを打ち壊しにされんですから、きちんとお詫びをしていただきたいです。大体、チケットは、100ドル以上しているんですから、1セント残らず、返金していただく必要があります。それに、割引を前提にしているのに、何も割引を受けられなかったのですから、私達は、もう少し待遇が良くても良いはずです」といった内容の事を、隣に居た夫が無口になるくらい、ドラマチックにしゃべりまくった。こういう時、開き直った妻というのは、なぜにこんなに強いのだろうと、自分でも感心した。これが効果を発揮し、チケット全額の返金はもちろん、全国各地で使えるレストラン券を、50ドル分も貰った。それを、「渋々承諾してあげるが、これは、善意でやってあげているんだ」という顔をして受け取ったが、本当は、とても嬉しかった。カンザスシティーに帰ってから、このレストラン券で、メキシカンレストランに2回行った。

 こんな朝を過し、マクドナルドのドライブスルーでチキンバーガーを購入した私達は、ブランソン近郊のミズーリ州スプリングフィールドに向けて出発した。夫はスプリングフィールドに友人が居り、彼に会いたいと言う。ここで私に選択権が与えられた。夫と一緒に友人に会いに行っても良いが、それは私にとって、非常に退屈になるのは、明らかだ。それで私は、スプリングフィールドでは別行動をし、一人で観光する事に決めた。夫は「大丈夫?」とかなり心配顔であったが、「帰りに迎えにきてくれる事さえ忘れなければ、私は大丈夫よ」と言った。それで私が選んだ場所と言うのが、「ウィルソンズ・クリーク国立戦場跡」という、南北戦争の博物館がある戦場跡地である。それほど大きな博物館ではないので、夫が帰ってくるまで、時間が潰せるかどうか、心配がないでも無いが、外の戦場跡地は公園になっており、そこをハイキングすることもできる。「大丈夫」と私は思った。後に夫は、大学で「南北戦争」の授業を取り、この時、私と一緒に博物館巡りをしなかった事を、後悔するのだが、それでも私がこの時購入した「ウィルソンズ・クリークの戦い」という小さな本を元に、レポートを書いた。

 夫の赤いピックアップトラックが去って行くのを見届け、私はビジターセンターの中に入った。ビジターセンター近くの博物館は、通常なら入場料がかかるのだが、この年が南北戦争150周年記念であったので、なんと無料で入る事ができるらしい。「的を得た選択をした」という充実感があった。ビジターセンター入口に南北戦争、特に「ウィルソンズ・クリークの戦い」に関する本が沢山ある土産物店があった。そこで時間を潰した後、「ウィルソンズ・クリークの戦い」を要約した30分くらいの映画を見た。この映画の中で一番私の関心を惹いたのが、ミズーリ州は北軍、南軍の境界線にあり、同じ家族内でも北軍に付いた者、南軍に付いた者と分かれる事があったそうだ。兵隊としてかり出された者の多くは、突然軍隊が家にやって来て、どうしようもないから、父親が戦争に行ったというケースで入隊したらしい。夫と私は、この日の前日、ブランソンのIMAX映画館で、オザーク地方の歴史に関する映画を見た。その中でも、ある家族の父親が戦争に連れて行かれて、戦地で自分の弟が敵軍にいるのを見つける。自分の軍が弟を追っているのを止めて、「彼は自分の弟だから」と命乞いをするシーンで、私は涙を流したものだ。そのすぐ翌日に、今度は国立博物館で同じような内容を見て、やはりあれは本当だったんだと、随分納得したのだ。


(南軍と北軍に分かれた兄弟の写真)

 「ウィルソンズ・クリークの戦い」は、1861年8月10日に行われた、ミシシッピ川以西で最大規模の南北戦争の一部である。今年は、丁度150周年に当たるので、大々的に”Reenactment”、「戦争の再上演」を行うらしく、博物館の所々に、「出演者募集」のポスターが貼ってあった。それには、「ヒストリーチャンネル」という歴史に関する番組ばかりを放送するテレビ局が、撮影に来るという事だった。南北戦争があった地では、毎年、南北戦争時の兵隊の格好をした人々が、本当に鉄砲や大砲を持って(と言っても、多分、弾丸は詰められていないのだろうが)、野原で南北戦争の再演をする。後にインターネットで今年の様子をビデオで見たが、北軍は紺色、南軍はグレーの制服であったのに、ここでの兵士達は、普通の薄汚いシャツを来ている人が多かった。それだけ「寄せ集め」の兵士達が多かったと言う事だろうか。 http://www.youtube.com/watch?v=kF7cp_azXSo&feature=related

 当初、ミズーリ州は中立の立場を表明していたが、南部州寄りのミズーリ州知事、クレイボーン・フォックス・ジャクソンが、南部諸州の独立に加担する。リンカーン大統領からの兵力要請を拒否し、ミズーリ州軍をセントルイス郊外のキャンプ・ジャクソンに集結。北軍の武器庫を破壊しようとする。しかし北軍の准将ナザニエル・ライヨンは、ジャクソンの動きを事前に察知し、武器をイリノイ州に移動していた。その後、州都ジェファーソンシティーを攻め落とし、州知事ジャクソンとミズーリ州軍をミズーリ州南西に追いやったライヨンは、ミズーリ州を北軍側に留め、兵力を増強した。

 しかしその後、ミズーリ州軍は南軍と合流し、スプリングフィールドに待機する。その数一万二千人。対する北軍の兵力は、六千人程だったらしい。兵力は圧倒的に劣る事を知りながらも、北軍のライヨン准将は、南軍を不意打ちするため、1861年8月10日早朝、進軍する。奇しくも、南軍のマックコーリック司令官も、北軍奇襲を計画していた。このような状態で開始された戦争の死者はあまりにも多く、北軍1,317兵、南軍1,222兵が命を落とす。

 1861年に開始された南北戦争は、1865年春に終結するが、ミズーリ州は、全国第三番目に戦闘数が多い州となる。今年は、ウィルソンズ・クリークがあるスプリングフィールド以外でも、150周年を迎えた戦場がミズーリ州に多くあり、Reenactmentが開催されていた。それだけミズーリ州は、南北戦争の傷跡が深かった地だと言えよう。北軍准将のナザニエル・ライヨンは、このウィルソンズ・クリークで命を落とし、南北戦争の北軍で最初に戦死した将軍となった。

(ミズーリ州内で勃発した南北戦争地を見たい方は、下のウェッブサイトをクリックしてください。地図が見られます!)

http://maps.google.com/maps/ms?hl=en&ie=UTF8&t=h&msa=0&msid=204646866071467967500.00049de92664fcff58dc9&ll=38.427774,-92.329102&spn=8.259677,14.0625&z=6&source=embed

 映画を見終わった後は、博物館内を見学した。



上の写真は、「ウィルソンズ・クリークの戦い」当時の南部の旗。11個の星は、合衆国から脱退した11の南部諸州(最初に脱退したサウスカロライナ州、ミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州と、南北戦争開戦後に脱退したバージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州)を表している。左上の角が切れているいるため、この旗は10個の星しかないのだが、下の写真の旗には11個全て入っている。



と言っても、上の写真では星1個が中央にあるのに対し、下の写真は全て丸になっていると、デザインが少々違う。合衆国から最初に脱退したのが6州だったため、一番最初の南部旗は、星6つだったそうだ。最終的に、ミズーリ州とケンタッキー州も脱退を表明した為、最終的には、星13個になったそうで、時代によって星の数は変化した。



上の写真は、北軍将軍のサミュエル・カーティスの制服。紺色である。



この写真は、北軍の兵士の制服。将軍の上等そうなコートに対し、こちらはもう少し庶民的である。





これら二つのグレーの制服は、南軍兵士の制服である。



南軍兵士の制服の下にあったこれらの品物は、その当時兵士達が携帯していたものだろうか。どうやら鞄の中に、マイ食器を携帯していたようである。



1897年に行なわれた「ブルー&グレー同窓会」のポスター。南北戦争が終了したのが1865年だが、その32年後には、「昔を懐かしむ」感覚で、ブルー(北軍)とグレー(南軍)が一同に会したのだろうか。



この写真の中にある茶色に古びた写真が、どうやらその時の様子のように思われる。一番下の白い紙に、"Souvenir of the Wilson Creek National Reunion of the Blue and Gray, Springfield MO Aug. 9th to 14th, 1897"と書かれているので、バッジやメダルのようなものは、その時に出たお土産だったのだろうか。



フラッシュが反射して見苦しいのが申し訳ないが、博物館にあったこの絵の中に居る南軍兵士達は、確かに不揃いのシャツを着ている。



これに対し、北軍の兵士達は、きちんと紺色の制服を着ているのを見ると、北軍の方がより統一、訓練された兵士だったのだろう。

この南軍兵士達の制服の不統一は、実は、北軍に大きく不利に働く。南軍の兵士達が北軍に近づいた時、北軍はそれを味方の援護部隊と勘違いし、かなり至近距離に来るまで彼らを待つ。その結果南軍が攻撃し始め、ここで多くの北軍兵士が負傷するのだ。もしここで、北軍兵士が攻撃されなかったら、北軍の援護部隊でなく、南軍兵士達であったことを見抜いていたら、北軍はウィルソンズ・クリークで勝利していたかもしれない。実際のウィルソンズ・クリークの歴史は、北軍が退去するという結果で終わった。




展示を全て見終わり、館内にあった図書館に入ってみた。そこには、南北戦争の実際の記録が綴られた本が、所狭しと並べられていた。その片隅に、名前は分からないが、南北戦争の高官の絵が飾ってあった。紺色を着ているので、北軍の司令官の一人であろう。



こうして見学を終了し、この後、外の戦場跡地に行く事にした。