2011年5月22日日曜日

Devil's Pool Restaurant



 セミナー会場を後にし、私達は、敷地内にあるレストランで食事をすることにした。丁度ランチに良い時間で、お腹も空いていたし、何しろ、さっき貰ったばかりのバスプロのギフトカードを使いたい。このギフトカードは、バスプロショップが経営するホテル、レストラン、そしてもちろんお店で使用できるのだが、私はそこにあるレストランで食事がしたかった。セミナーがあった建物は、バスプロが経営する「ビッグ・シーダーズ・ロッジ」の敷地内にあり、そこには、レストラン、湖、ハイキングコースなどがある。エレベーター内で見た「Devil's Pool Restaurant」(http://www.big-cedar.com/Page/81/11/Devils-Pool-Restaurant.aspx)というレストランに行こうと、車に乗った。しばらく敷地内を迂回したが、湖の近くに、そのレストランを見つけた。

 中に入ると、古い家を改造した、広い空間があった。奥には暖炉があり、大きな窓の外には、湖が見える。こんな居心地の良いレストランで、値段の心配もせずに食事ができるというのは、なんとラッキーなことだろう。つくづく、あのセミナーに行って良かったと思った。レストランで食事ができるだけでなく、緑美しい中に身を置けるのが、嬉しかった。



 暖炉近くの窓際に席を取り、私達は迷うこと無く「鱒」を注文した。ブランソンは、鱒が釣れることで有名だが、前日のレストランでは食べられなかった。しかし、このレストランでは、フライでは無く、グリル焼きの魚に、マッシュポテトとブロッコリーが添えられていると、ウェイトレスは言う。それこそ私が食べたかった物だと、アイスティーと一緒に注文した。最初にスコーンやパンが出てきた。大きなクッキーの塊かと思っていたら、大きな板状の物は、黒胡麻がのったクラッカーで、意外にもおせんべいのような味がした。

 ここで、自然にさっき出席したセミナーの話しになった。私が一番知りたかったのは、「結局、一晩いくらなの?」ということだった。セールスマンは、やたらと「ポイント」を繰り返したが、初めてセミナーに参加した私には、そんな風に計算できない。これだけ大きな買い物をしているのだから、もう少し現実的に、一体いくら自分が何に払っているか、知りたいところだ。普通の主婦だったら、そういう風に考えると主張し、「私だったら、もっと上手くセールスできる」と、夫に豪語した。そこで、夫の携帯電話の計算機で計算すると、結局、一晩当たり、六十ドル代だった。そう考えると、タイムシェアもずっと現実味が湧いてくる。「それなら、やってみようか」と考える物である。「一週間で三千ポイント」と言われるよりも、「一泊60ドル代、一年に四週間、三十年間使用できるプラン」と言われた方が、よっぽど分かりやすいと言う物だ。一泊60ドル代で、こんな豪華なホテルに泊まれるのなら、確かに安い。三十年後を考えたら、確かにそんな値段ではモーテルでも泊まれなくなっているだろう。



  クリーミーなマッシュポテトの上に、鱒がのっている大きな皿が、運ばれてきた。ウェイトレスが言った通りに、グリルで焼かれた鱒は、ハーブとガーリックの香りがして、おいしかった。一口、一口、目を閉じて味を楽しんだ食事は、随分久しぶりだ。確か、これが一皿18ドルだったと思う。夫も同じ物を頼み、アイスティーを付けて、税金とチップを入れたら、丁度50ドルくらいになった。それで、さっき貰ったばかりのギフトカードの50ドル分を、ウェイトレスに渡した。こんなに満足した食事をタダでさせてもらって、とてもハッピーな気分だった。いや、タダだったから、なおさら楽しめたのだろうと思う。つくづくバスプロのタイムシェアをやって良かったと大満足だった。

 この後、レストランを出て、ホテルの敷地内を、ゆっくり散歩した。ホテルの隣には、大きな川が流れていた。川の向こう岸に、大きなロッジ風の家が沢山並んでいた。「あれは、個人の別荘なのか、それともホテルなのか」と夫と話し合ったが、ビッグ・シーダーズ・ロッジのホームページを見ると、どうやらあれも、ホテルの一部らしい。随分、豪華である。川岸に生えている木々が、美しい。この敷地内を歩いている分には、お金がかからないはずだ。ここに宿泊せずとも、ゆっくり散歩できて、随分美しい時間が持てた。


2011年5月20日金曜日

タイムシェアのセミナーに、いよいよ参加!



 三日目の朝、いよいよタイムシェアのセミナーに参加する時がやって来た!と書くと、大層仰々しく聞こえるが、私はタイムシェアに興味があった。自分自身が購入するというわけでは無く、「社会見学」感覚である。どれくらいセールス攻撃されるか、少々不安が無いでも無かったが、アメリカ社会をもっと見てみたいという好奇心の方が大きい。

 夫は昔、ブランソンに住んでおり、ホテルのフロントで渡された、セミナー会場への地図も、理解しているようだった。なので安心してドライバーの夫に頼っていたが、道が意外に込んでおり、途中、GPSも利かない場所に入り込み、いつの間にか集合時間が迫っていた。だんだん焦ってきた夫は、道を間違えてしまい、「こんな所では無いだろう」と言うような場所に出る。引き返し、地図と道にあるサインを照らし合わせて、やっと集合場所の「ビッグ・シーダー・ワイルドネス・クラブ」の駐車場に着いた。慌ててエレベーターに乗り、三階に行く。エレベーターのドアが開き、中に入ると、意外とリラックスした雰囲気で、沢山の旅行客が、各々テーブルについて談笑していた。最初に受付カウンターらしき場所で名前を述べ、八時半にセミナーの予約を入れていると言うと、「少々お待ちください」と言い、コーヒーやジュース等の飲み物を、自由に取って良いということだった。



 コーヒーを飲みながら、テーブルに着いた私達は、セールスマンがやって来るのを待った。「セミナー」というので、大きな教室のような部屋で、誰かがマイクを持って話すのを想像していたが、実際は個別にセールスマンと話しをするようだった。しばらくすると、四十代くらいの男性が、私達のテーブルにやって来た。周りの人達が、もう少し年配のセールスマンと話しているのと比べると、彼はずいぶん若い。客層によって、セールスマンを選ぶのかもしれないと思った。ブランソンに来る観光客の多くは、お年寄りである。彼らに比べれば若人の私達には、若めのセールスマンをあてがったのかもしれない。なかなか人の良さそうな感じだったので、私は少々ホッとした。

 このセールスマンは、私達を二階の部屋に誘導した。三階は、アメリカ国立公園にあるロッジホテルのロビーといった雰囲気だったが、二階はもう少しビジネスオフィス風で、私達の着いたテーブルの横には、仕切り壁があった。そこでやっと本題に入る。まずこのセールスマンは、自己紹介をした。私はてっきり、彼はビッグ・シーダー・ロッジ(http://www.big-cedar.com/)の従業員か、バスプロの社員だと思っていたが、隣町スプリングフィールドに住む不動産業者ということだった。彼は、「他のセールスマンと違って、無駄な時間は過さず、要点から入る主義」で、この後、スプリングフィールドに帰らなければならないということだった。そして私達の職業、収入、休暇の過ごし方等を聞く。私達は正直に、正しい情報を彼に与え、これまでの旅行について語った。そしてセールスマンは、ビッグ・シーダー・ロッジの「タイムシェア」について語り出す。
「これは全てポイント制です。一年間に12,000ポイントが付き、三十年間所有できます。」
そして一枚の紙を取り出すと、
「現在の一ポイントの価格は、3ドル25セントです。」
ということは、12,000ポイント × 3.25ドルで、合計39,000ドルの物件が、私達の目の前で、語られていたのだ!少々高い旅行プランでも売られるのだろうと、覚悟はしていたが、これほど高い物だとは思わなかった。
「タイムシェアの良い所は、値段を固定できることです。このシステムが始まった頃の1ポイントの値段は1ドル代でした。でも今では3.25ドル。この先、物価はドンドン値上がりし、三十年後にはホテル代も、ガソリン代も、今からは考えられないくらい高騰しているでしょう。でもタイムシェアでは、一旦買ってしまえば、三十年間値段が上がりません。これは、あなたが所有しているからです。」
そして、用紙に書かれる計算部分が、ドンドン大きくなっていく。
「あなたがこれまで行った旅行で、ホテル代にいくら使いましたか?私達のタイムシェアでは、一週間の滞在で三千ポイント必要です。」
「つまり、一年間で四週間滞在できるというわけね。」
と私が言うと、
「そうです。その他にも、レンタカーや、クルーズにもポイントを使うことができます。クルーズは食事等が付くので、一週間で五千ポイント必要です。これを使いこなせば、世界中にあるホテルに泊まり、格安の旅行ができるというわけです。」
そして彼は、ホテル所在地がマークされた地図を私達に見せた。確かに契約を結んでいるホテルは世界中にあるようで、日本にも沢山のホテルがあった。

しかし、私達は一年間に四週間も旅行に行くようなライフスタイルを持っていない。大体、仕事をしていたら、どうして四週間も休暇が取れるかという話しだ。休暇大国フランスならまだしも、アメリカではそんなに休みが取れない。だからタイムシェアは、ヨーロッパで生まれたのだろうか。ブランソンが、タイムシェアのメッカになっているのが、分かる気がした。そんなライフスタイルが持てるのは、定年退職したお金持ちのお年寄りくらいだろう。ブランソンに来るお年寄り観光客は、彼らの絶好のターゲットというわけだ。

「もし、ポイントを全て使い切ることができなければ、翌年に繰り越すこともできるし、他の人に売却することもできます。6パーセントの手数料がかかりますが、私達はそのためのオンラインも設置しています。」
だから、心配することはありません、ということかもしれないが、しかしそれでも、私達にとっては、高額過ぎる。三万九千ドルという、今の私達がポンと衝動買いできる値段ではないのが、かえって良かったと思った。購入可能範囲内なら、「う〜ん、どうしよう」と迷うかもしれないが、これでは手も足も出ない。ブランソンの格安ホテルと、125ドルのギフトカードくらいで、三万九千ドルもの物件を買わなければならない義務は、無いはずだ。

一通りの説明が終わると、今度は部屋を実際に見せてくれるということだった。建物の外に出て、冷たい空気の中を歩く。ここで私は、このセールスマンに聞きたかった質問をした。
「ブラッド・ピットのお兄さんも、スプリングフィールドで不動産業者をしているって聞いたことがあるんですけど、ご存知ですか?」
すると、彼は大きく頷いて、
「もちろん、知ってますよ。彼は、高校が違うけど、世代が一緒だから、いろんな所で会いますよ。」
ということだ。あのブラッド・ピットは幼い頃、ミズーリ州スプリングフィールド
に家族と共に移り、スプリングフィールドの高校を卒業している。その後、ミズーリ州にある大学に進学した。大学は卒業しなかったそうだが、あれだけ有名俳優になれば、そんなことは関係無いのだろう。
「ブラッド・ピットの両親もまだスプリングフィールドに住んでいて、たまに里帰りしてますよ」と言う。えっ、ということは!
「ブラッド・ピットに会ったことありますか?」
「もちろん、何回も会ってますよ。」
え〜!こんな所で、ブラピの知人に出会うとは!そこで、
「今度、彼に会った時、よろしく言っといてくれますか?」
と言ったら、クスッと笑って、「伝えておきます」と約束(?)してくれた。昔、日本のテレビで、「ブラッド・ピットと友達になりたい!」というアイドルが、彼女の芸能人友達を伝い、ブラッド・ピットとメール友達になれるかどうか、というリアリティーショーをやっていたが、結局、「ブラッド・ピットは、メールをしません」という、正式回答を貰ったそうだ。そんな日本の芸能人達より、私はブラピに遥かに近い!と満足であった。

タイムシェアの見学用として準備されているのか、実際に利用客が泊まるホテルの部屋と同じ造りのものが、公開されていた。そこには、私達のようにタイムシェアのセミナーに参加した人達が、セールスマンに連れられて見学していた。ホテルの部屋は、どこも美しかった。さすがバスプロ系のホテルだけあり、アウトドア趣向がテーマなのか、山小屋風のデザインである。どの部屋も大きなキッチンがあり、そこには食器、冷蔵庫など、料理に必要な物は全て揃っている。ゲストルームがある部屋もあり、親戚一同引き連れて滞在というのも可能だ。特注のステンドグラスがはまった窓は、美しかった。ジャグジー付き風呂とか、とにかく豪勢である。こんな豪華なホテルに泊まれるのなら、タイムシェアも悪くないかも、という気にさせるのである。(部屋は、こんな感じhttp://www.big-cedar.com/Page/27/4/Private-One-Room-Cabin.aspx

この後、また小部屋に移り、ついに最終決断の時がやって来た。セールスマンは、細かい値段の交渉に移る。このタイムシェアは、基本的に三万九千ドルだが、それに固定資産税と管理費を、毎年払わなければならない。ということは、実際に支払わなければならない金額は、もっと高いのだ。そして一括払いできない人達の為に、ローンがあるが、その利子というのが、16パーセントというのだ。これは異常に高い。そしたら最終的なお値段は、いくらになるというものだ。しかし、今回特別にポイントの値段が割引されるという。しかしそれでも、まだまだ私達には、高かった。夫は、「バケーションの為に、借金をする気は無い」とはっきり言った。はっきり断ってくれて、良かったと思った。確かに、家とか車ならローンを組んででも、買う必要があるかもしれないが、バケーションの為に、借金をする程、私達に余裕は無い。私達は年に何回か、旅行に出かけるが、いつも貧乏旅行である。このタイムシェアというのは、基本的にホテルだけの値段である。そこまでの交通費や、現地での食事代、観光代等を入れれば、一年で四週間のバケーションは、かなり高くなるはずだ。やはり、私達のライフスタイルには合わない。セールスマンも、「これは全ての人に合うわけでは、ありませんからね。」と諦めてくれた。

しかしこの後、彼の上司が、にこやかに最後の一押しにやって来た。ここでも、私達は、きっぱりと断った。その後、「お待ちかねのギフトカード」が貰える事務所に行くことになった。ここで最後の最後、一年で九百ドルというプランを見せてくれた。これは「所有」ではなく、お試しで一年間、限定されたホテルに泊まれるという物だった。ここまで値段が下がり、さすがの私達も、「う〜ん」と唸ったが、「今年は大学の授業も取らなきゃいけないから、旅行に行く時間は無い。」と、ここでも断った。人の良いセールスマンで、せっかくスプリングフィールドからやって来て、何の収穫も無かったのは申し訳なかったが、この後、バスプロ系のレストランやショップで利用できるギフトカードを、百ドル分貰った。

この最後の事務所を出てから、最初の三階のロビーに戻った。国立公園にあるロッジホテルのような雰囲気の、あのロビーを、どうしても写真に収めたかったのだ。三階に戻ると、最初の頃の人だかりは消え失せ、スタッフが数人居るだけだった。そこで、鹿の剥製の前や、ソファに座って写真を取った。




夫と二人で楽しげに写真を取っていると、どこからとも無く現れた男性が、私達二人の写真を取ってあげると申し出た。彼は、「外のポーチから写真を取ったらいかがですか?湖が見えますよ」と言ってくれたので、ドアを開けて、ポーチに出た。そこにはTable Rock Lakeが広がっていた。曇り空なのが残念だが、湖が見れただけで、感動した。親切なスタッフに、お礼を言った。タイムシェアのセミナーという、いかにもビジネスな時間にもかかわらず、ここでの思い出は、今回の旅行のハイライトの一つになった。


2011年5月15日日曜日

ブランソンのシーフード食べ放題レストラン、Starvin’ Marvin’s



 キューピー博物館を出た後は、その前に寄った激安チケット売り場に、また立ち寄る。ここでのことは後ほど語るとして、そこに居た「トム」という男のお勧めレストラン「スタービン・マーヴィンズ」というシーフードの食べ放題レストランに行った。二日目のディナーであったが、この時が初めての「外食」だった。ブランソンにある大量の広告から見つけたクーポンで、一人2ドルほど安くなったと記憶しているが、それでも、最終的に、チップや税金を入れて、50ドル近く払ったと思う。だから決して安くはない。そこの食事は、それほど感動する物では無かった。南部の方に行くと、「揚げ物」が多くなるが、ここでも主流は揚げ物で、シーフードの殆どは、フライだった。基本的に私は、フライをあまり食べないようにしている。カロリーが高いだけでなく、「新鮮な魚本来の味」がしないからだ。フライにすれば、全てフライの味がする。日本人の私好みでは無い。

 ここで生まれて初めて、「蛙」を食べた。蛙の「足」を、口の中で強く感じた。形が分かった。意外に大きかった。あまり感じの良い物では無かった。よくアメリカ人は何か新しいものを食べた時、「チキンのような味」と何でもかんでも「チキン」にするが、そんなアメリカ人の真似はすまいと思えど、やはり「チキンのような味」と思った。ニューオリンズで食べた「ザリガニ」もあった。ケージャン風が、そのレストランのテーマなのか、辛くて食べられないほど、スパイスがかけてあった。

 蟹はフライでは無かったし、蟹を食べられる機会はあまり無いので、大量に確保し、夫と分けて食べた。アメリカ人は茹でた蟹に、溶かしバターをつけて食べる。私達のテーブルにも、小さなカップに入ったバターと、蟹の殻を砕く道具が届けられた。蟹は、随分食べにくい。殻がやたらとでかく、苦労してむき出した身は、意外と小さい。頑張った割には、ご褒美が少ないといった感がある。

 カンザスシティー出身の夫は、バーベキューリブを沢山皿の上によそった。しかし、バーベキューソースが甘すぎて、食べれたものでは無いと言う。私も一つ食べてみたが、こってりソースは、甘過ぎた。そこで夫は、ウェイトレスに、「ソースをかけずに、リブだけ持って来てくれ」と注文する。しばらくすると、ソースがかかっていない、焼かれただけのリブが、テーブルに到着した。夫は「こっちの方が、よっぽどましだ」と言った。「カンザスシティーに住んでいる僕らは、随分甘やかされた環境にいる」という感想も述べた。カンザスシティーはバーベキューで有名で、自分の舌はもっと肥えているということが言いたかったのであろう。自分が「甘やかされた環境に居る」とは思わないが、一々反論する必要も無いと思い、「そうだ、そうだ」と相槌を打っておいた。

 とまあ、あまり満足する夕食ではなかったが、この後、ブランソンで初のショーに行かなければならなかったので、あまり長いすること無く、そのレストランを出発した。

2011年5月2日月曜日

ボニーブルック歴史協会、及びキューピー博物館


 この日最初の予定は、私が前々から行きたいと夫に言い続けてきた、「キューピー博物館」の見学だった。ブランソンのすぐ北に、日本でおなじみ「キューピー」の作者、「ローズ・オニール」が晩年を過ごした家「ボニーブルック」が、復元されて残っている。上の絵が、オリジナルのボニーブルックだ。古いキューピー人形にも興味があったが、「ローズ・オニール」本人もずいぶん波瀾万丈に飛んだ興味深い人生を送ったらしく、それに家自体が、緑美しい自然の中にあるので、ぜひ見学したいと思っていたのだ。途中、ブランソンの「半額チケット」という言葉に惑わされて、また寄り道をし、少々時間がかかったが(この件については、後ほどじっくり語ります)、前日は私達のねぐらであった夫のトラックに乗って、キューピー博物館に向かった。

 ローズ・オニールの家はハイウェイを降り、緑に包まれた小径を少々走った末にあった。最初に入った建物はビジターセンターで、そこでチケットを購入し、いよいよツアーが行われるローズ・オニールの家に向かう。家の中に入ると、ガイドの女性が私達夫婦と、同じツアーに参加した男性二人組を迎えてくれた。男性二人というのが、私にとって、少々不思議だった。私の夫のように「キューピーマヨネーズがある日本で生まれ育った妻」を持つなら話しは分かるが、若い男二人。それも地名は忘れてしまったが、どこか遠い州から遥々やって来たという事だ。一人はビデオ、もう一人は写真のカメラを抱え、ブロガーの私並みに、熱心に記録している。この熱意は異常だ。使命に燃えている。この日は、年に一度キューピーファンが集まる「キューピー・フィエスタ」が行われた週だったので、キューピークラブの会員なのかもしれない。キューピー人形のコレクターは多く、オークションでも高値で売られるらしい。



 ツアーは、キッチンから始まった。ガイドはまず、その家が「幽霊に取り憑かれて」いて、テレビ取材された事を語った。火事で全焼し、20世紀になってから新しく再建された家なのに、なぜ幽霊が住み着くのか、私には不思議だったが、その姿形は全く見えず、音も聞こえず、恐い思いはしなかった。至る所に、ローズの作品が飾ってある、可愛らしいキッチンだった。

 リビングルームに移り、ガイドはローズ・オニールの人生と、彼女の家ボニーブルックの歴史を語りだした。ローズ・オニールは、1874年ペンシルベニア州で生まれ、幼少の頃、家族と共にネブラスカ州オマハに移る。八人兄弟の第二子で、幼い頃から美術の才能を発揮したローズは、14歳の時、オマハの「ワールドヘラルド」という新聞会社のコンテストで、見事賞を取る。しかしあまりにも熟した才能を示した作品を提出したため、審査員はローズの技量を確認するため、彼らの前で実際に絵を描かせたという。結果と言えば、ローズが5ドル金貨を受け取った。

 ローズ18歳の時、娘をニューヨークの美術学校に送ろうとした母は、学費捻出のため、シカゴで牛を売る。ニューヨークでもトップクラスのイラストレーターになったローズは、大企業の広告や雑誌にイラストを売るが、そんな彼女でも、女性であることを公開できなかったそうだ。その当時のアメリカでは、女性が男性と堂々と肩を並べて、社会で生きていく事は、まだ出来なかったのだ。家の見学の後に行った博物館には、「女性参政権運動」をしているローズの写真があった。女性というだけで、肩身の狭い思いをさせられたローズは、筋金入りのフェミニストでもあったようだ。因みにローズは、アメリカで最初の女性イラストレーターだったらしい。

 ローズの家族はネブラスカ州からミズーリ州オザーク高地に移り住み、ローズはそこを訪れると、その自然の美しさを深く愛し、長期滞在するようになる。イラストレーターとして成功したローズは、家族に仕送りし、「ボニーブルック」は、少しずつ増築され、最終的には三階建て、十四部屋を有する大邸宅となった。

 二度の結婚と二度の離婚を経験し、パーティー狂であったローズの家には、常に誰かが寝泊まりし、それが何ヶ月にも及ぶ事もあったそうだ。1909年の「キューピー」誕生後、ローズはとてもお金持ちになった。雑誌、食品会社等がこぞってキューピーを採用し、社会現象にまで発展し、ローズは、ニューヨーク、コネチカット、イタリアに家を持つようになる。パリで個展を開き、大成功も収める。

 しかしそんなローズも、浪費と、写真の進出でイラスト自体が時代遅れとなったせいで仕事を失い、晩年は貧しい生活を送ったそうだ。スプリングフィールドの甥の家で亡くなったそうだが、この甥が、彼女の美術品を全て彼の家に運び込み、その二日後、ボニーブルックは火事で完全に焼失する。ガイドの話しでは、ローズの弟による放火説があるそうだ。そんなにタイミング良く、火事が起こるというのは、さすがに怪しい。何か世間に知られたくない物が、この家にあったのだろうか?ガイドは、家がカビにやられ、崩壊しかけていたので、放火したという説があると言っていたが、本当のところを知っている人は、もう存在しないのだろう。

 

キッチンの次に、リビングルーム、音楽ルーム、書斎など、一階の部屋を見学した。所々に、ローズのイラスト入り家具があり、写真に収めた。壁には、もちろん彼女のイラスト入り額縁が飾ってある。

二階は寝室用になっていた。ローズが使っていたベッドルームには、キルト布団がかけられたベッドがあった。




外に通じるドアがあり、ポーチに出てみると、広い庭が下に見えた。そこにはローズが作製した銅像があった。ローズは本当に芸術の才能があった人で、私達日本人には「キューピー」のイメージが強いが、彫刻や、ずいぶん違った種類の絵画を数多く残しているのだ。



 廊下の末に、陽光が射している窓があった。そこで写真を取ると、心霊現象が写ると、例のゴーストテレビが承認したそうだが、私が取った写真には、そんな物は影にも写っていなかった。



 一番上の階には、ローズの仕事場があった。緑色に壁が塗られているが、その当時もそんな色をしていたのだろうか?なんだか現代的な気がする。アメリカのこうした「古い建物」に行くと、中が新しく塗り替えられている場合が多い。もちろん、ボニーブルックは火事で全焼し、復元された家なのだから、新しくて当たり前なのかもしれないが、本当の歴史保存とは言えないと、私は思う。



 仕事部屋には、ローズの作品や写真が沢山あった。ローズが実際に使っていたキャンパス立てもあり、そこには絵の具が付いていた。ガイドの話しでは、彼女の三十一歳の息子が、誰も居ないその部屋で、物音を聞いたそうだ。それ以来彼はそこに一人では絶対行かないそうだが、私達にはそんな音は聞こえず、私は思う存分写真を取った。こうしてボニーブルックの見学は終了し、この後、博物館の方に移った。















 博物館は、入り口にギフトショップがあり、左に曲がると、鏡ばりの陳列ケースに入った古いキューピー人形があった。ローズ生存中は、ドイツの会社でビスク焼き人形が数多く作られたそうだ。それらは私達日本人が知っている「キューピーマヨネーズ」のキューピーとは、かなり違う。日本のキューピーは、やはり「アニメ化」されていると思う。人形のキューピー達は、ローズ・オニールが描いたキューピーともかなりかけ離れているように、私には思えるのだが、ローズが実際にドイツまで赴いて作られた人形なので、彼女はそれで良いと思っていたのだろう。大きな人形は、何かに取り憑かれているような恐ろしい形相をしていると、私は思うのだが。(こんなことは、現地ではとても口に出来なかった。)しかし、陳列ケースに入った小さな人形の中には、原画に近いキューピーも沢山あった。ガイドが、値段が書かれた本を見せてくれたが、「エーッ」と驚くほどの高値である。小さな置物でも、何千ドルもする。現在は製造されていないアンティークとはいえ、その値段には驚かされた。






 その奥には、ローズの絵画がある美術館になっていた。入り口で一枚写真を取ると、ガイドが「そこでは写真撮影禁止になっているのよ」と私に注意したので、その後は写真を取っていない。



私が三十分ほど観察した限りでは、ローズの作品には三種類ほどあると思う。一つは、食品会社や女性雑誌用に描いた、コマーシャル向けのイラスト。これが、ビックリするほど、「上手」なのである。と、素人の私に評価されるのは、ローズにとって侮辱にも通じるかもしれないが、キューピーとは全く違った、パリのイラストレーターの作品かと思うほど、素晴らしい作品を数多く残している。写真を取れなかったのが残念だ。

 その次には、「愛」をテーマにした、ずいぶんどんよりした(ドロドロした)作品。男女が抱き合った物が多い。こっちの作品は、もう少し男性的な、大胆な筆使いで、荒々しい印象を受けた。こちらは、もっと「美術館向け」といった感じだ。(例えば、こんな感じ。下の写真は、ローズの家にあった彼女のスケッチです。)



そして最後のカテゴリーが、もちろん「キューピー」。





(こちらの写真も、ローズの家で取りました。日本のキューピーとかなり違うのが分かりますか?)

これら全てが、同じ芸術家から創作されたとは思えないほど、全く違うのだ。こういった意味で、ローズ・オニールは、ずいぶん奥の深い芸術家だと私は思う。

 この後、建物の反対側にある場所で、「ガレージセール」のようなキューピー人形販売所があったので、そこで日本のキューピーを2ドルで購入した。ガラスケースに陳列してある古いアンティーク人形とは違い、こちらは、本当にガレージセールのようだった。その他にも、キューピーの小さな本を一冊買い、博物館を後にした。

タイムシェアで予約したホテルにチェックイン



(この日もホテル自体の写真を撮り忘れ、上の写真は、ホテルの5階の私達の部屋からの風景です。)

 ブランソンへのドライブ旅行二日目の朝、キャンプ場を出発し、「ラディソンホテル」(http://www.radisson.com/branson-hotel-mo-65616/mobranso?s_cid=se.ggl.rad_cmp15)にチェックインする。前日バスプロショップで、「2泊99ドル」で予約したホテルだ。ホテルの受付カウンター前に、バスプロが所有する「Big Cedar Lodge」のデスクがあり、そこで最初に受付をした。翌日のセミナーの予約を、一番早い8時半に入れた。開催場の地図が渡され、「不参加だと、クレジットカードに100ドル追加請求されます」と前置きされる。セミナー会場はブランソン郊外のようだった。私達の泊まったホテルは「ラディソンホテル」という、多分1泊120ドルから150ドルくらいのホテルだ。ブランソンで一番大きなホテルの一つだろう。繁忙期ではないので、特別に朝10時くらいにチェックインさせてもらった。しかし、セミナーを開催するのは、バスプロショップが所有する「Big Cedar Lodge」( http://www.big-cedar.com/)という山小屋感覚のホテルだ。そのホテルが主催する「タイムシェア」のセミナーに参加するので、こんなお得な旅行が実現したというわけだ。

 セミナーの予約をした後、今度は「ラディソンホテル」の受付に行き、やっと部屋の鍵を渡される。指定された520号室に行き、シャワーを浴びた。部屋は五つ星級ではないが、通常私達が泊まるモーテルに比べれば雲泥の差で、最近アップグレードされたばかりのキングサイズベッドは角度調節可能、枕も布団もフワフワで気持ち良かった。アメニティーも充実していて、満足である。

 仕度を整え、出かける前に、ホテルの中を少々見学した。地下にレストラン、ジム、プールがあるようだった。売店のようなピザ売り場を覗いていると、そこで働いている従業員が、レストランの中を案内してくれた。そこはバーのようで、夜になると開店するらしい。そのバーの横にある通路に、ずらりと額に入った写真が壁に飾られていた。そこは戦死した兵士達を讃える場所のようだった。戦争を放棄した日本とは、かなり違うアメリカを見る瞬間である。神道を利用し、天皇を神のように仰ぎ立て、絶対服従を要請した戦前の軍事国家日本を終焉させたのは、アメリカなのに、アメリカがある意味、戦前の日本のように兵士達を「ヒーロー」と呼ぶのは、未だに違和感を私は感じる。アメリカが、日本のようにならなければ良いが、と思う。日本人の私にとって、自分の国が「戦争」に参加していたのは、第二次世界大戦までだ。随分、過去の話だ。しかし、アメリカでは現在でも戦争に行く。最近知ったことだが、現在の50歳代までは、若い頃に「徴兵された」、つまり「強制的に戦争に行かされた」経験を持つ人が多くいるのだ。もちろん徴兵制度は、アメリカでは廃止され、現在では職業として志願した軍人のみが戦争に行くが、ベトナム戦争までは、一般の若い男子が、普通に戦争に送られていたわけだ。夫の母は、「自分は女だから、戦争に行かなくても良かったことが、どれだけ救われたか知れない」と言った事がある。その頃生まれたヒッピー文化も、戦争に行かなければいけない不安を背景にしていると言える。こういう感覚は、今の日本人には無い。後に知る事になるのだが、ブランソンは、随分こうした保守的なアメリカ人、つまり戦争をある意味「美化」する人が多いと思う。

 とまあ、そんなブランソンの一面を知った後、ホテルを出発した。