2010年3月29日月曜日

メンフィス到着、キング牧師を想う



アーカンソー州のモーテルを出、青空の下、テネシー州メンフィスを目指す。前日カンザスシティーからアーカンソー州までぶっ続けで運転した夫は、「今日は君の番ね」と運転席から離れ、タバコを吸いだした。仕方がないので、渋々運転席に移り、目を細めてタバコを吸っている夫を見ると、彼は「とってもセクシーだねー」と言った。こういう感覚が良くわからず、こういう時、私は夫がアメリカ人だと思う。

フォードの運転席は、私のサタンよりかなり小さく、ずいぶん窮屈な感じがした。私がアメリカで初めて手に入れた車はフォードだったが、こんなに窮屈だっただろうか。慣れないレンタカーでありながらも、澄んだ青空の下、どこまでも続く一本道を運転するのは、気持ちが良かった。

メンフィスが近くなると、「シモーン」ことGPSが、途端に目覚めたように、指示を出し始める。「左側に残ったまま、I-55を突き進め」とか、「次の出口で、I-40に行け」とか、やたらと命令口調である。しかし彼女の指示のおかげで、"Welcome to Tenneessee"という看板を橋の上に見つけ、その先にはメンフィスのダウンタウンが見えた。しかし、あまり準備をしていなかった私たちは、メンフィスのどこに行けば良いのかがわからず、しばらくダウンタウンの中をうろうろしたり、どこか全くわからない住宅街に行き着いた後、車を止めて行き先を決めることにした。夫は「この先は運転する」と言って運転席に移り、携帯のインターネットでメンフィスの観光情報を捜し始めた。私はもしかしたらメンフィスに行くことになるかもしれないと思っていたので、旅行前、折りあるごとに日本人が書いたブログを読んでいたが、その中で一番行きたいと思ったのが、マーティン・ルーサー・キングが射殺されたモーテルにある博物館だった。夫は、数年前に出張でメンフィス近郊の都市に来たことがあり、その時メンフィスの「ビールストリート」に行ったので、そこにもう一度行きたいと言ったが、行き方が良くわからなかった。彼が調べ物をしている間、前日からの残り物のサンドイッチとオレンジを後部座席から探し出し、夫と一緒に食べることにした。なんだか、路上駐車ながらもピクニックといった感である。新鮮なオレンジがおいしい。旅の途中の迷っている最中でありながらも、なんだかのどかで、二人だけの時間だったので、良き思い出となった。

結局、観光情報を提供するインフォメーションセンターにまず行こう、ということになり、GPSを開始し、ダウンタウンに向けて私たちは走り出した。インフォメーションセンターは、ミシシッピー川のすぐ近くにあったが、駐車場を見つけることができず、路上駐車をした車に私を残して、夫は建物の中に走っていった。夫がいなくなった車の横に、「コットン博物館」という看板があるのが見えた。どうやら近くにあるようで、テネシー州の綿花ビジネスについて学べる博物館のようであった。時間があれば行きたいが、今回は多分行くことは無いだろうと思った。


Beale Street





















「知識は力なり!」と、インフォメーションセンターから車に戻った夫は言う。「ビールストリートはこのすぐ近くだよ」と言うので、とにかく彼が行きたかったビールストリートに行くことにした。観光局で教えてもらったとおりに行くとすぐに、「BBKing」の大きな看板が目に入る。途端にウキウキする。ブルースを育んだビールストリートには、「伝説の人」と呼ばれるブルース演奏者達が演奏するライブハウスがたくさんある。夫はかなり興奮していた。ここでも駐車場を探すのに困るが、くるくる回っていると、通行止めになっている所を開けて、「ここに止めたらいい」という老人がいた。「ここに止めればただだが、ホームレスを助けるために1ドル寄付して欲しい」と言われ、彼に1ドルあげることにした。そこに駐車することは100パーセント安全ではなく、駐車違反のチケットを貰う状況になるかもしれなかったが、「まあ賭けだよね」ということで、とりあえず、ビールストリートを歩くことにした。





しばらくビールストリートを歩いた後、やっぱり一番有名な店は外せないでしょう、ということで、「B.B.King」のブルース・クラブに入ってみることにした。私はお腹が空いていなかったが、カウンター席に着いた夫は、早速バーベキューのリブやらベークド・ポテトやらが入ったメニューを、ビールと共に注文した。カンザスシティーはバーベキューで有名だが、メンフィスもバーベキューで有名で、ここのリブもおいしかった。その他にピクルスのフライと、チキン・ウイングも皿の上に載っていた。店の中央にはブルースを演奏するステージがあったが、私たちが入った時間帯には、演奏は無かった。夜になると入場料に5ドルかかるらしい。昼間の店内は、おしゃれなレストランといった感じで、なかなか良い感じだった。


B.B.Kingの店を出てすぐに、路上に埋められた銀色に光る音符を磨いている人がいて、夫に話しかけてきた。私一人であれば、あまりこういう人と話はしないが、夫と一緒にいると、何かと一人では決してしない経験をよくする。その人の話によると、そこの店で音符に刻まれた名前の主、Clyde Hopkinsに会えるというのである。


「彼は伝説のブルース奏者だよ」という言葉に乗せられ、ビデオカメラを持った夫はそのまま店の中に入り、Clyde Hopkinsを取材し始める。握手を求め、その店でCDまで買った。Clyde Hopkinsは、とても小柄な人の良さそうなおじいちゃんであった。何でも、オバマ大統領にもうじき会いに行くという話だった。本当かどうかは良くわからないが、ビールスストリートに名前が刻まれるほどの人なのだから、やっぱり有名人なんだろう(いやいや伝説の人なのだろう)と思い、記念写真を撮らせてもらった。おじいちゃんも(いやいや伝説のブルース奏者Clyde Hopkinsも)、なんだか得意げにポーズを取ってくれた。


National Civil Rights Museum at the Lorraine Motel





ビールストリートを後にし、いよいよ私が行きたかった「National Civil Rights Museum」に向かう。ここは、アメリカ公民権運動の指導者「マーティン・ルーサー・キング」が射殺された場所である。彼は、「ゴミ回収者の労働条件がひどすぎる」と、当時問題になっていたメンフィスに、デモ行進をしにやってきたのだった。このモーテルに宿泊し、その夜、地元の黒人公民権運動の中心者であったBilly Kylesの家でのディナーに行くため、モーテルの部屋を出たところ、この「306号室」の前で、銃弾に倒れる。それはJames Earl Rayによって、向かいのアパートから発射された一発であった。キング牧師は、その前にも脅迫を受けていたようで、メンフィスにある教会でのスピーチでも、大きな音にびっくりして後ろを振り返ったという。

「私も、他の誰もが思うように、長生きしたいと思います。」

キング牧師が射殺される前日に発せられたこの言葉は、彼が暗殺されるのを予感していた事を、感じさせるものである。1968年4月4日、マーティン・ルーサー・キングは39歳で生涯を終える。彼の最後が、「ゴミ回収者を助けるため」であったのは、彼の崇高な人生を凝縮していると思う。

博物館の中は写真撮影禁止であったため、写真は撮らなかったが、アメリカ公民権運動の歴史が学べる、内容の濃い展示物で満載であった。まず初めに、マーティン・ルーサー・キングが射殺された背景を描いたドキュメント「The Witness From the Balcony of Room 306」を鑑賞する。その後、個人で展示物を見て回るのだが、私たちは音声ガイド付きのチケットを購入したので、ヘッドフォンをつけて歩き回った。展示の内容は、私が個人的にとても興味があるアーカンソー州リトルロック市の「セントラル高校の危機」、アラバマ州モントゴメリー市の「バスボイコット運動」など、公民権運動の歴史が説明されている。私が知らないこともたくさんあり、アメリカの公民権運動に関心を持っている私にとって、大変有意義で重要な経験になった。


再びビールストリートへ


公民権運動博物館を出ると、辺りは暗くなり始めていた。晩ご飯を食べる時間帯になっていたが、さて次はどこに行こうか、といった感じである。昼間、ビールストリートであったもう一人の「伝説のブルース奏者」(こう何人も「伝説の人」がいれば「伝説の人」と言えないのではないかと思うのだが)は、確か7時半くらいにB.B.Kingの向かいのお店で演奏をすると言っていたので、夫はそれに行きたいと言っていた。その時間にはまだ早く、晩ご飯を食べたい。インフォメーションセンターで貰ったガイドブックを開き、良さそうなレストランを適当に選び、GPSを開始して運転し始めるが、どうもどこにあるのか良くわからない。なので結局「ビールストリートに戻ろう!」ということで、またダウンタウンに戻ることにした。ここでまた困るのが、駐車場である。この日は地元のバスケットボールの試合がFedexForumという所で開催されているらしく、町中、車で込んでいた。やっと「10ドル」という看板を持っている駐車場誘導者を見つけ、その人が指し示す場所に駐車する。ビールストリートからは少し離れていたが、歩けない距離ではない。しかし風が冷たく、ずいぶん寒いのがつらかった。

夫が行きたかった店は「Blue City Cafe」で、後でインターネットで調べてみると、ずいぶん有名人がたくさん訪れた店らしい。演奏者もさることながら、お客としてきた人達の中には、クリントン大統領や、俳優のトム・クルーズ、ロバート・デニーロなんて超有名人の名前がリストにずらりと並んでいる。店の中には有名人の写真がたくさん飾ってあった。昼間のBBQや揚げ物がまだ消化されていなかったので、またこってりしたものは食べたくない。しかし、どうやらメンフィスでは、それがとても難しいようだ。メニューをみると、BBQか揚げ物ばかりである。しかしよく見ると、翌日行く予定のニューオリンズ名物「ガンボ」が、メニューに入っているではないか!これしかないと思い、迷わず決めた。夫は確か「ビーフシチュー」を頼んだと思う。ガンボは、おいしかったが、この後行ったニューオリンズで食べたものより、「うまみ」が足りなかったような気がする。「これなら私にも作れる」と思えるような味であった。しかし、おいしいことには変わりない。

食事の後、隣のバーに移り、いよいよお待ちかねの演奏が始まるのを待つ。ここで夫はビールを頼み、私はコーラを飲んだ。かなり待った後、ブルースの演奏が始まったが、私個人の意見を言えば、あまり感動しなかった。なんだかおじいちゃん達(と言っちゃ悪いが)が、だらだら演奏しているだけで、「気合が足りない」という感じなのである。基本的に私は「ブルース世代」ではない。ブルースとジャズの違いも良くわからない。こんな私にブルースについて語ることは不可能である。


このバーを出た後、もう一軒、他のバーに行った。これはアメリカによくある「アイルランド系」のバーで、そこに出演している女性シンガーは、「グラミー賞」だかなんだかに(芸能関係の話はあまりよく知らないので)ノミネートされたそうで、ずいぶん迫力のある歌いっぷりだった。私個人としてはこっちの方が100パーセント好みで、最初っからこの店に来れば良かったと思った。お店の名前は「Silky O'Sullivan's」という。ブルース以外のお店に行きたいなら、ここはお勧めである。彼女の後、ピアノのデュオがあったが、これもすごかった。メンフィスに行く機会がまたあったら、ぜひ行きたいと思う。

この後、ホテルを決めるのにまた問題発生だが、(詳しくは言えません!)結局「Red Roof Inn」というホテルに決めた。ここは確か64ドルくらいで、前日のアーカンソーのDays Inn に比べれば、はるかに快適であった。こうして、メンフィス初日は過ぎていった。

ドライブ旅行開始!アーカンソー州で宿泊



(以前ホームページ形式の「ダービン家 地球を行く」に綴ったものを、ブログの方に移しています。内容は同じです。これは、2009年12月8日から13日までに行なった、「メンフィス、ニューオリンズ、セントルイス旅行」の記録です。)

(上の写真は、2008年にオクラホマに行った時の写真で、今回の旅行のものではありません。ドライブばかりで写真を撮らなかったので、この表紙の写真として使用しています。アメリカの中西部をドライブすると、こんな感じの風景が、延々と続きます。)

夫はなぜか、こういう時になると変なことに固執する癖があって、早く出発しなければならないと言うのに、荷造りをしながら、家の中を掃除し始めた。
「家に帰ってきた時、その方が気持ちいい。」
確かにそうであるが、天気予報では、雪が降ると言っているのだ。一刻も早く、カンザスシティーを出るべきだ。ドライブ旅行の良い点は、時間に縛られること無く、マイペースで旅を進められることだが、しかし、このままではルイジアナ州に到着など、到底できそうに無い。

寒々と曇った空からは、今にも雪が降りそうである。ルイジアナ州は、カンザスシティーから見ると、東南の方向にある。そこで夫は、まずミズーリ州東端のセントルイスに向けて、ハイウェイを走り始めた。ミズーリ州は、東西に長い州である。西端のカンザスシティーからセントルイスまで、5時間ほどの距離である。ニュースでは、西の方から寒気が流れ込んできて、アメリカ大陸の西側は、大雪になっていると言う。しかし、私達は、丁度その雪を逃れるようにドライブを進めていったので、幸いにも今回の旅行中、雪に見舞われることが無かった。

途中で、車が多くなる場所があり、夫が「コロンビアだ」と言った。ミズーリ州コロンビアは、ミズーリ州大学がある学生の街である。高速道路から、大学のマスコットの「タイガー」がついた看板が目についた。

セントルイス近くになると、夫は南に走る方角を変えた。これで南方に向かうことになり、いよいよ「州越え」も近くなる。ミズーリ州の南は「アーカンソー州」である。私は今までアーカンソー州に行ったことが無かったので、通り過ぎるだけとはいえ、新しい地に行くのは嬉しかった。アーカンソー州に入ってから、トイレ休憩をするため、高速を降りて、近くにあったマクドナルドに立ち寄る。夫と私のためにコーヒーを購入すると、無料で「コカコーラ」のグラスを2本くれた。ずいぶん立派なグラスで、なんだか素敵なお土産ができて、ずいぶん得した気分だった。

アーカンソー州に入ると、ラジオから流れてくる曲が、なんだか「カントリー調」ばかりになる。この地方の人たちは、カントリーしか聞かないのだろうか。「どこに行っても、アメリカの文化など、ほぼ同じもの」と思いがちであるが、やはり南部に行くと、何かが違う気がした。

この日の目的地は、テネシー州のメンフィスだったが、カンザスシティーからぶっ続けで運転し続けた夫は、アーカンソー州のどこか名前も知らない場所でドライブを中止し、宿を探すことにした。たぶんメンフィスまで1時間くらいの所であろう。メンフィスよりもホテルの値段も安いだろうから、それも良いのでは、と私は思った。高速道路脇にあった「Days Inn 」に一部屋取り、疲れた身体で、荷物を部屋に運び込む。その部屋は、ずいぶん古く、壁紙の色が、安モーテルを象徴しているかのようであった。水道の水は、ずいぶん臭いがきつい。私もアメリカ生活がかなり長くなってきたが、水道水が、飲めないほど臭いがきついと思ったのは、初めてだった。テレビも、かなりの年代物で、高画質に慣れている私の目には、20世紀に逆戻りといった感じで、ずいぶん気が滅入るものだった。
「南部に行くと、こんなものなんだろうか?」
こんなモーテルに一生住まなければならないとしたら、とてもやっていけない。アーカンソー州の最初の印象は、私にとってあまり良いものでは無かった。夫は疲れて、早々に眠りについている。私も少々テレビを見た後、眠ることにした。

2010年3月21日日曜日

スネークパレード

 
 カンザスシティーでは、「セントパトリックデー」の前週の土曜日、「スネークパレード」という催しが、毎年行われます。日本でも最近は大都市で、セントパトリックデーのパレードが行われるようになったそうですが、元々はニューヨークのアイルランド系移民が、3月17日のセントパトリックの命日にパレードをしたのが、始まりだそうです。セントパトリックデーは、「3月17日」と固定されていて、週末になるとは限らないためか、ノース・カンザスシティーでは、セントパトリックデーの前の土曜日にパレードをするというわけです。今年は雨が降ったこともあり、私は行かなかったのですが、去年はしっかり行きました。本当は去年、「カンザスシティーの週末」でご紹介したかったのですが、なんだか忙しく、時間がないまま書かずにいると、時期を外してしまい、そのままになっていました。なので、今回ここでご紹介したいと思います。

 セントパトリックデーには、皆、緑色の服を着ます。このパレードでは、突拍子もなくでかい緑色の帽子や、ビーズのネックレスが、道端で売られていました。緑というのは、アイルランドの色らしく、確かにアイルランドの田舎の写真を見ると、緑の芝生が地面いっぱいに広がっています。この日は、アイルランド系のバーでビールを飲むのが、典型的なセントパトリックデーの祝い方だと思います。セントパトリックデーの夜、Facebookをチェックしてみると、バーに行った女の子が、「ビールさえ緑色だった!」と報告していました。

 ところで「スネークパレード」ですが、色々な人がパレードに参加し、アイルランド系である必要はありません。地元の企業が宣伝で利用するようで、遊園地の「World of Fun」や消防隊員や、「動物愛護教会」など、登場する人たちは様々です。

これは、「ルネサンス・フェスティバル」から、登場です。カンザスシティーでは毎年秋に、「ルネサンス・フェスティバル」が開催され、野外でルネサンス時代の様子が楽しめます。3年ほど前、夫の親戚一同と一緒に行ったことがありますが、大変暑く、埃まみれになり、歩き回った足が痛かったのを覚えています。ここに登場している人達のように、ルネサンス時代の衣装を着た人達がいっぱいいて、衣装を買うこともできます。


これは、地元の小学生のようですね。おそろいの赤いワンピがかわいいと思います。バトントワラーズのように、この子達はくるくる踊っていました。








お次は、もう少し大人の高校生のブラスバンド部のようです。兵隊のような衣装がかっこよくないですか?





最後にご紹介なのが、いかにもアメリカ野郎なバイク軍団です。緑のかつらが印象的です。





また観客の群衆にも色々楽しい人達がいたので、こっそり彼らも写真に撮りました。






パレードが終了すると、皆さんカーニバルに行きます。ここには移動式の簡易遊園地が大きな駐車場にあり、子供達が楽しそうにはしゃいでいました。その側には、バーベキューとか、オニオンリングとか、色々な食べ物屋台が並んでいます。列があまりにも長かったので、私は断念したのですが、楽しい一日でした。

2010年3月20日土曜日

セントパトリックデーと、コンビーフとキャベツ



 今週の水曜日は3月17日で、セントパトリックデーだった。前日の火曜日、たまたま会社帰りに立ち寄ったスーパーの入口で、たった1ドルで売られている緑色のTシャツの山を見つけた。翌日のセントパトリックデーで、緑の服を着ずに出社し、「つねられる」なんてことは、実際にはないのだが、うちの会社では結構みんな、こういった行事を楽しむ人が多いので、今年は緑の服を着ていこうと、この緑のTシャツの山に近寄った。ビニール袋から取り出されているTシャツはXLで、私には大き過ぎる。試しに「S」を袋から取り出してみると、意外に大きい。なので「S」を自分用に、「XL」を夫用に買うことに決めた。

 そのTシャツが入ったカートを押し、更に奥に進んでいくと、今度は「コンビーフ」に遭遇する。セントパトリックデーの伝統料理は「コンビーフとキャベツ」で、どうやらアイルランドの人達は、こういった料理を食べているらしい。これは買わないわけにはいかないと、1パックカートの中に入れたが、コンビーフなど、今まで作ったことがなく、作り方がわからない。日本人のイメージでは、コンビーフというと、どうも「缶詰」に入ったドライなものを想像するのだが、パッケージに書いてある指示を読むと、どうやら「茹でる」らしいのである。パッケージに入っている肉は、私がイメージしていた「ほぐされた肉」ではなく、デーンと大きな塊で、しかも「生」だ。赤く血に染まった漬け汁には、なにやら黒い丸いものが入っている。まあ、作り方はインターネットで調べられるから、とりあえずキャベツを買おうと野菜売り場に行くと、キャベツが特売になっている。フムフム、やっぱりセントパトリックデーには、皆キャベツを食べるんだなと、アメリカ移住何年目かわからない昨今、妙に感心した。キャベツを一つカートに入れ方向転換をすると、なんとアメリカ人の友人の顔が見える。彼女にはサンクスギビングやクリスマスなど、アメリカの伝統行事で「作り方がわからない!」という時、何度か窮地を救ってもらっている。こんな時に、さらに今まで会ったことがなかったスーパーで巡り会うとは、なんという幸運か!早速コンビーフの作り方を聞くと、やはり「水を入れて茹でる」という。
「ちょっとゆすいだ方がいいわよ。ほら、ここにシードが入っているでしょ。こんなのを噛んだりしたくないものよ。」
というのである。私の頭の中は、更に混乱した。水を入れて茹でるのに、調味料は全て捨ててしまうのか。そしたら味がなくなってしまうのではないか。そして、
「キャベツや人参や玉ねぎを入れるのもいいわね。私なんか、肉よりも野菜の方が好きなくらいよ。玉ねぎは小さな「パールオニオン」を入れるって言う人もいるけど、大きいのでも大丈夫よ。」
と言う。そこで私が、
「玉ねぎなんて、切っちゃえば一緒でしょ。」
と言うと、
「いやいや、野菜は切らない。」
と言う。更に頭の中が混乱だ。どーもイメージできない。私としては、コンビーフにサワークラフトをパンに挟んで食べるという、まるでサンクスギビングデーの翌日の、ターキーサンドイッチのようなものを想像していたのだが、どうやらずいぶんちがうらしい。腑に落ちない顔をしながら友人と別れ、レジに向かう。

 家に帰って、早速インターネットでレシピを調査し、そこでなぞが解ける。要するに、「コンビーフとキャベツ」とは、「ポトフ」のようなものなのだ。私がイメージしていた「缶詰コンビーフにサワークラフトを添えて、サンドイッチ!」は、大きな間違いである。(これはこれでおいしそうではあるが。)作り方にはいろいろあって、どうしようか迷ったが、結局、初心者の強い見方「スロークッカー」を使って作ることにした。パッケージをはさみであけ、「ブリスケット」と呼ばれるどでかい肉の塊を、スロークッカーの容器の中央に置く。そして適当に水を入れ、「弱火7時間コース」で調理を始めた。1時間半ほどして玉ねぎを加え(やはり丸ごと入れる気はせず、大きめに切りました)、その後、キャベツも加えた。本当はジャガイモも加えたかったのだが、容器がいっぱいになってしまい、断念。途中で眠くなり、後はスロークッカー任せで、就寝することにした。

 翌朝、スロークッカーは、保温状態になっていて、蓋を開けると、いい匂いがする。ナイフで小さく切って、コンビーフを食べてみると、これが非常においしいのである。日本の缶詰コンビーフとは、雲泥の差がある。スロークッカーを使ったのは、正しい選択だった。肉がとても柔らかいのだ。しばらくすると、夜勤明けの夫が帰ってきた。
「キャベツの臭いがする。」
夫は、少々顔をしかめた。夫はキャベツが好きではないのだ。キャベツ嫌いのアイルランド系アメリカ人。ご先祖様が、泣いてはいないか。キャベツが嫌いだろうがなんだろうが、妻が初めて作った「コンビーフとキャベツ」である。強制的に食べさせた。
「お母さんは、コンビーフとキャベツ作ったことあるの?」
たぶん、記憶になかったのだろう、返事が返ってこなかった。

 前日スーパーで買った1ドルグリーンTシャツと、シャムロック型の緑のビーズネックレスをつけて、出勤である。会社の半分以上の人は、やはり、緑色の服を着ているが、ビーズまでつけている人は少なかった。ランチに、もちろん自宅から持ってきた「コンビーフとキャベツ」を食べた。おいしかった。ジャガイモ入れたら、もっとおいしかっただろうなと、少々、後悔。来年は、キャベツを入れずに、ジャガイモだけにしよう。そしたら、夫ももっと喜んで食べてくれるだろう。夫が仕事なので、バーに行くことができないのは分かっていたので(私としては、こちらの方が典型的なセントパトリックデーという気がする)、このくらいで、今年のセントパトリックデーは終了した。

2010年3月17日水曜日

セントルイス旧裁判所



 この日で、今回の旅も終了です。私達がセントルイスで行った場所は、「ゲートウェイアーチ」でもなく(と言っても外から見ましたが)、「ルイス&クラーク」の博物館でもなく、野球場の「ブッシュスタジアム」でもなく、「セントルイス旧裁判所」でした。なぜここに行ったかというと、南北戦争の引き金の一因になったという「ドレッド・スコット対サンドフォード裁判」が、このセントルイス旧裁判所から始まったからです。現在、この裁判所は博物館になっています。


 「ドレッド・スコット」は1800年頃、バージニアで奴隷として生まれました。最初の主人ピーター・ブローが1818年に納税のために申請した「所有品」リストの中に、スコットは「18才以上の奴隷」として登録されています。(つまり、家畜や物と同じ感覚で、スコットは所有されていたのです。)ピーター・ブローの死後、1833年にスコットは「ジョン・エマーソン」という軍隊の医師に購入されました。この医師と一緒にドレッド・スコットは、自由州であったイリノイ州に1833年から1836年まで住みます。この時点でスコットは、法律的に自由の身になるべきなのですが、当時のスコットは、そのことを知らなかったのか、単にジョン・エマーソンの下で働くことに苦痛を感じなかったのか、自由を求めることはしませんでした。その後、この二人は、議会で奴隷制度が禁止されていた地域内にある、現在のミネソタ州に移ります。そしてドレッド・スコットは、「ハリエット・ロビンソン」に出会い、結婚。その後、二人の娘を授かります。

一方、主人のジョン・エマーソンは、エリーザ・アイリーン・サンフォードという女性と結婚しますが、40歳の若さで、突然この世を去ります。未亡人となったエリーザは、夫の財産を相続し、ドレッド・スコットと、彼の家族は彼女の所有物になりました。ジョン・エマーソンは彼が他の地で勤務している間、そして妻のエリーザは彼の死後、ドレッドを他の人に「貸し出し」、ドレッドの働いた分は、彼らの収入として受け取りました。こういった生活をしている中、ドレッド・スコットは1846年、エリーザ・アイリーン・サンフォードを相手に、家族全員の自由を求めるため、裁判に訴えます。彼の言い分はこうです:

ドレッド:自由州であったイリノイ州とミネソタ州に住んでいたため自由。
妻のハリエット:自由州のミネソタに住んでいたため自由。
長女:自由準州であるウィスコンシン・テリトリーで生まれているので自由。
次女:自由人の母から生まれているので自由。

ドレッド・スコットがこのように裁判に訴えることができたのは、白人の支持者がいたからです。ドレッドの最初の主人ピーター・ブローの息子は、奴隷制度廃止論者の弁護士をスコット一家のために雇いました。



 最初のセントルイスでの審判はドレッド・スコットの意見を支持。ドレッド・スコットは自由であると宣言します。しかしそれを不服としたサンフォードは、上訴します。サンフォードの本当の綴りはSanfordなのですが、裁判所の記録係がスペルを綴り間違え、Sandfordと記録されました。なので、裁判名を言う時は、「ドレッド・スコット対サンドフォード」(Dread Scott v. Sandford)となるそうです。エリーザ・アイリーン・サンフォードは、裁判を抱えたまま、マサチューセッツ州の医者と結婚し、1849年か1850年に、セントルイスを離れました。その後、彼女の弟がこの裁判を引き継ぎ、まるで代理人のように振舞ったと言います。1852年ミズーリ州最高裁判所は、一審の判決を翻し、ドレッドは自由ではないと言います。1854年、ミズーリ州の連邦裁判所の裁判長ロバート・ウェルスは、ミズーリ州最高裁が、スコット一家は自由ではないと決定したのだから、彼らは奴隷のままであるとしました。その後、合衆国連邦の最高裁判所に訴えるのに、ドレッドの最初の主人の息子は、資金を調達できなくなるのですが、モントゴメリー・ブレアーという弁護士が、無料で弁護することを申し出ます。11年かかって出た最終判決は、何か。最高裁の裁判長ロジャー・テイニーは、このように結論付けます。

1. 黒人は自由人も含め、アメリカ国民ではなく、よって裁判に訴えることはできない。
2. ミズーリ妥協(ミズーリから北西の地域は、自由の土地)は、正式な法律ではなく、議会はこのテリトリーでの奴隷制度を禁止する権限を持たない。

そして、「アフリカから奴隷として連れて来られた奴隷の子孫達は、劣った人種で、社会的にも政治的にも、白人社会に溶け込むことは、到底できない。その劣等性はあまりにもひどく、白人男性が持っているどの権利も有することはなく、黒人は社会的にも、法律的にも、奴隷として留められるべきである。」などと、今の私達からは考えられないような発言をしています。このドレッド・スコット裁判の判決は、スコット一家だけの問題ではなく、アメリカ国民と政治家達の間に、大きな波紋を呼び起こし、リンカーン大統領が当選してからは、南北戦争が始まります。南北戦争はもちろん、この判決だけによって起こったわけではありませんが、スコットの裁判は、奴隷制度廃止運動に大きく拍車をかけたと言えます。

 裁判には負けてしまいましたが、ドレッドの最初の主人の息子が、エリーザ・サンフォードからスコット一家の所有権を買い上げ、その後自由人として解放しました。しかしドレッドはその後長生きすることなく、翌年亡くなります。彼が起こした裁判は、最も悪名高き判決として、アメリカ裁判史上に名を残しました。

以上、セントルイス旧裁判所で買った「Dored Scott v. Sandford A Brief History with Documents」(著者:Paul Finkelman)という本から、「ドレッド・スコット対サンドフォード裁判」の歴史をまとめてみました。

 
 ゲートウェイアーチの反対側にある入口から旧裁判所に入ると、ホールに奴隷制度に関する展示がありました。夫は博物館に入ると、全ての展示を読もうとする傾向があるので、ちらちらと目を通した後、私は夫を残して、展示室の中に入りました。そこには、ドレッド・スコットの歴史、裁判の様子、判決を出した裁判官達の写真などが展示されていました。その奥には、裁判所を再現したかのように、高い段の上にある机がありました。


 旧裁判所の建物の中央には、大きな吹き抜けになったホールがあり、天井には美しい壁画が描かれています。ここはきっと、ドームの下にあたるのでしょう。ここで写真を撮っていると、制服を着た職員がいたので、ツアーがあるか聞いてみると、「午後になるまでツアーはないが、向こうの部屋でドレッド・スコットに関するビデオを見ることができる」と教えてくれました。そこで夫を引っ張ってその部屋に行き、ビデオを鑑賞。ビデオはやっぱりビジュアルエイドなので、展示物よりわかりやすく、大変勉強になりました。


 そして二階に上がり、実際に「ドレッド・スコット対サンドフォード裁判」が行われた部屋と同じ造りの部屋を見学。こんな風な所で裁判が行われたのかと感動です。この旧裁判所には、ドレッド・スコット裁判以外の展示物もあり、アメリカ開拓時代のセントルイスの様子が学べます。

 この後、ギフトショップで、上の歴史のまとめに使った本を購入。この裁判所は博物館になっているため、管轄が隣にある「ルイス&クラーク」の博物館と同じなのか、ルイス&クラークに関する本もたくさんあり、ここで前から読みたいと思っていた彼らの日記と、彼らが辿った道を紹介するガイドブックも買いました。私がアメリカで最初に住んだネブラスカ州オマハと、現在住んでいるミズーリ州カンザスシティーのどちらにも、ルイス&クラークは訪れており、特にカンザスシティーは「ケースパーク」という公園もあるし、街のいたる所に「ルイス&クラーク探検隊が通った道」という標識が出ているので、アメリカ大陸を始めて陸路で横断したルイス&クラーク探検隊の話には、興味がありました。なので隣にあるルイス&クラークの博物館にも行きたかったのですが、夫が早くカンザスシティーに帰りたいと言い出したので、敢え無く断念。あー、また心残りのある旅になってしまった。



 しかし、ここでも「せめてランチだけは、食べて行きましょ」という誘いには乗ってくれたので、旧裁判所のすぐ前にある「Caleco's」というレストランに入りました。そこはパッと見、「バー」という感じなのですが、メニューを見るとしっかり食事ができそうです。そこでルイジアナ帰りの私は、「ケージャンパスタ」をいただくことにしました。これは大当たり!セントルイスに行ったら、また絶対食べたい一品です。

 こうしてまた、4時間ほどドライブし、カンザスシティーまで帰りました。

2010年3月14日日曜日

ルイジアナ州から、セントルイスへドライブ!



 ミシシッピー川流域のリバーロードにあるプランテーション「ローラ」を見学し、その近くのレストランでケージャンフードの「ガンボ」と「ザリガニ」を食べた後、私達はミズーリ州セントルイスに向けて出発しました。そのレストランでは、茹でたザリガニやエビを1ポンド単位で購入できるので、本当は、ごっそり買いたかったのですが(しかも破格値!)、夫に「これから長いドライブするのに、そんなもの買ってどうするの」と言われ、渋々諦めました。でも、ランチで食べ残した分は、しっかりお持ち帰り。その夜泊まったホテルで、こっそり食べました!

 さてさて、この先は、とても長いドライブです。ルイジアナ州はメキシコ湾に面し、メキシコはすぐそこ。そこからアメリカ大陸のほぼ中央にあるミズーリ州セントルイスまでドライブしようって言うんですから、かなり無謀な計画です。それも出発したのが、午後3時近く。最初、私は、セントルイスに行くんじゃなくて、もっと近道してアーカンソー州のリトルロックを通って、カンザスシティーに帰ろう、と提案したのですが(地図を見てください!その方が遥かに距離が短いです!)夫が「アーカンソー州は大きな高速道路が通っていないから、一車線の田舎道をのろのろ走る事になる。それよりも、元来た道を戻って、セントルイスに行こう」と、絶対的発言権を行使し、私のプランを却下しました。ということは、今朝一時間程西にドライブしたことは帳消しになり、また東方面のニューオリンズまで戻ってI-55に乗り、そこから長いミシシッピー州、テネシー州、アーカンソー州を越えて、ミズーリ州のセントルイスまで行こうという計画です。ここで短気な妻が怒ったかというと、そうではなくて、「それなら、行きたかったセントルイス旧裁判所に行こう!ラッキー!」と、既に旅を最大限に有効活用することにしました。

 最初夫に運転してもらい、私は居眠りをし、気付いたらミシシッピー州のガソリンスタンドにいました。ここでトイレ休憩をし、(アメリカのガソリンスタンドは、ドライブ旅行者の休憩所で、トイレを使うのはもちろん、大きな所だと、シャワーが使える、まるで銭湯のようなガソリンスタンドもあります。)隣のマクドナルドで、夫が確かハンバーガーと、アップルパイと、チキンナゲットを買いました。(そうそう、ガソリンスタンドには、こうしてよくファーストフードレストランが併設されています。ドライブ大国は、こうしてドライブ旅行者に優しい国です。)私はお裾分けを貰い、しばらく高速を走ると、夫が運転する私達のレンタカーは、高速道路の出口に向かっていました。「はてな?」と思っていると、「運転交代」と強制的。「え~、そんな~!」と思えど、さすがに全路を夫に運転させるのは、あまりにも不公平なのは明らかなので、怠惰な自分に鞭打つ思いで、運転席に移りました。その後私は、確か4時間くらいぶっ続けで運転!夫よりも長距離を運転したので、鼻高々です。

 ドライブの最中、私達が何をしたかというと、携帯電話の「ブルートゥ-ス」という音楽サービスで、車中ガンガン音楽をかけまくって、カラオケ大会です。「ブルートゥース」の良い点は、「それに近い音楽」を選んで流してくれる点だと思います。これを利用すれば、CDなど必要ありません。この時は、渋い50年代、60年代の黒人の音楽をいっぱい聴きました。


 その後2回交代し、ミズーリ州に入ると、「そろそろ今日の宿を探さないと」ということになり、夫が携帯のインターネットでホテル探しを始めました。車窓から見える地名を頼りに、ホテルに電話すれど、なかなかいい所に巡りあわず、一旦高速から下りて、本格的にホテルを探すことにしました。やっと辿り着いたホテルは、名前は忘れてしまいましたが、フロントのお姉さんが夜中2時近くだというのに、親切丁寧な方でした。この時はクリスマス前だったので、フロアにはクリスマスツリーが飾ってありました。そして「朝食には、ソーセージや、ビスケット&グレイビーソースが出る」なら、夫も私も大満足。地名は忘れてしまいましたが、そこはセントルイスから車で30分くらいの所で、ここまで来れば、明日セントルイスに行けるし、セントルイスからならカンザスシティーに戻るのは、そんなに大変なことじゃない。そしたら、その翌日は、計画通り仕事に復帰できる!今日の午後までルイジアナ州にいたのが信じられないねと、お互いの健闘を讃え合いました。ホテルの部屋は、私達にとっては十分過ぎるほどきれいで、文句無し。夫が外でタバコを吸っている間、私はルイジアナから持ってきた「ザリガニ」を、ゴミ箱を前に一人黙々と食べました。味がしみたザリガニは、冷めているのに昼間よりおいしいと思いました。部屋に入ってきた夫は、「何してるの?」と、少々呆れ気味。「冷蔵庫がないから、今日中に食べた方がいいかなと思って」と、私は言い訳。まあ、日本人はシーフードが好きなのよ。アメリカ中西部出身のあなたには、わからないことよ。


 翌朝、出かける仕度をし、朝食があるバフェに直行。お約束通り、ソーセージとビスケット&グレイビーソースがありました。スクランブルエッグもありました。今回の旅行の中で、最高の朝食でした。こうして、車に荷物を積み込み、セントルイスに出発しました。