2010年2月28日日曜日

リバーロード、ルイジアナ州プランテーションを訪問



この日は、ニューオリンズのホテルを引き払い、ミシシッピー川流域にあるプランテーション地域を訪問しました。ニューオリンズ西方面から州都バトンルージュを流れるミシシッピー川流域は「リバーロード」と呼ばれ、綿花やサトウキビの栽培で巨額の富を得た大農園が、観光客を受け入れています。こうしたプランテーションハウスは、南北戦争で焼き払われたものが多いのですが、戦火を免れたか、戦後修復された大邸宅が一般公開されており、中にはホテルになっている所もあります。数あるプランテーションの中から、私達はホテルで勧められた「ローラ」に行くことにしました。上の写真が正面から見た「ローラ」です。ここのツアーは何でも、ルイジアナ州ナンバー1のアトラクションと認定され、興味深い歴史が学べます。

プランテーションハウス「ローラ」があるVacherieまでの道のりは1時間くらいで、周りは湿地帯や河や湖が広がっていました。ルイジアナはやはり、水が多い土地で、こんな所を開墾するのは大変だったはず。フランスからルイジアナへは当初、囚人や売春婦が送られたというから、シベリアに送られるのと同じような感覚だったのかもしれません。

車を運転している最中、夫がニューオリンズから出ているバスツアーに参加した方が良かったのではないかと、言い出しました。「ツアーに参加すればガイドが付くから、解説があって楽しい」というのです。しかし、この後セントルイスまでドライブする予定の私達に、そんな時間の余裕はありません。「ローラ」の駐車場に到着すると、そんなバスツアーがちょうど観光客を迎えに来たところでした。彼らはこの後、他のプランテーションに行くのでしょう。

車を降り、小雨が降りだした駐車場から急いで入った建物は土産物売り場で、そこからツアーが始まるようでした。レジをしていた若い従業員が「さっきツアーが出発したばかりですが、そのツアーに参加されますか?」と聞いてきましたが、私はできればツアー全てに参加したかったので、途中から参加するのは断りました。部屋の隅には、クレオールのプランテーションがどのように建てられたかを、科学的に解明するビデオが流れていました。そのビデオを最初は夫と一緒に見ていたのですが、私にとっては少し専門的過ぎたので、トイレに行くことにしました。トイレは違う棟にあり、一旦外に出なければなりませんでしたが、意外に清潔で、カウボーイ時代の映画に出てくるような、真ん中から両側に開く扉が付いていました。他の客が来なければ写真を撮っていたところですが、生憎、使用中の人がいたので、写真を撮るのはやめておきました。

土産物売り場に戻り、しばらくすると、私達のツアーの出発時間。それまでレジにいた若い従業員が、実は私達のツアーガイドのようでした。このガイドはあまりにも若く見えたので、私は地元の高校生のアルバイトだと思っていたら、どうやらもう少し年上の様子。少なくとも、歴史について勉強をしているという印象を持ちました。彼は私達夫婦ともう一組の夫婦を、プランテーションハウスの正面に連れてゆき、ツアーを開始しました。このツアーガイド、スティーブンはまず、「クレオール」のプランテーションハウスについて語り始めました。「クレオール」とは、植民地に移住した、またはそこで生まれたフランス人のことで、「黒人と白人の混血児」と解釈するのは、間違いだと思います。スティーブンも、「クレオール」という言葉を「フランス人」として使っていました。しかし、彼らの文化がアフリカ文化に影響を受けているのは確かで、この「ローラ」の外壁は黄色、緑色と、イギリス人が建てた白いプランテーションハウスとは、趣がかなり異なります。この「ローラ」は、アフリカの伝説「Brer Rabbit」が書かれた場所としても、有名らしいです。

このプランテーションハウスが「ローラ」と呼ばれているのは、最後の女領主の父が、彼女にちなんで名付けたからだそうです。この女領主ローラは、彼女の先祖がフランスからどのようにアメリカに渡って来たか、南北戦争をどのように生き残ったか、又、彼女の子供時代のプランテーションの暮らし等を記した回想録を残しています。私はニューオリンズのフレンチクォーターを歩いている時、偶然この本を売っている店に入りました。ニューオリンズで泊まったホテルのロビーで、プランテーションツアーのパンフレットを漁っていた時、この本の写真が目に留まり、「ローラ」に興味が湧いたというのが「ローラ」を訪れた本当の理由だったかもしれません。

ルイジアナは、水害がひどい土地。この土地にこれだけ大きな家を建てるには、しっかりとした土台が必要で、この邸宅の下には、地中深くブロックが埋められていると言うことです。こういった家に関する基本的なことを述べた後、スティーブンは、私達を一階の貯蔵室に連れて行きました。ここには大きな瓶がいくつもありました。電気がない時代、人々がどのように食物を保存していたかと言うと、この瓶の中に食べ物を入れ、地中に埋めていたらしい。水があるルイジアナの地中は、ちょうど冷蔵庫と同じくらいの温度で、食べ物を保存するのにちょうど良いということです。

ローラの曾おじいさんグイラウム・デュパルクは、血気盛んなフランス人だったらしく、決闘で父の親友の息子を撃ち殺してしまい、父の激怒を買います。その結果、海軍に送られ、フロリダでの対イギリス戦で、スペイン王カルロスに認められ、1792年から1803年までスペイン領だったルイジアナで、土地を与えられます。その後、ミシシッピー川の岸辺でプランテーションを始めました。このデゥパルクの娘エリザベスは、ずいぶん頭の良い娘だったらしく、彼女がデュパルク・プランテーションの相続人になります。そんなことを説明した後、スティーブンは壁に書かれたローマ数字を指し示しました。そこに書かれた数字は、何でもこの建物の年代を表すものらしいです。


一通り一階を見て回ると、ローラのお気に入りであったという庭を見学しました。幾何学模様の庭園は、12月だというのに緑に覆われ、手入れが行き届いていました。このような美しい庭園と、ミシシッピー川を眺める生活というのは、優雅なように聞こえますが、このプランテーションの経営がいつも楽であったかといえば、そうではありません。借金に苦しんだ時代もあります。南北戦争では、一家総出で逃げ出さなければなりませんでした。そういった南部人の生活が学べて、このプランテーションの旅は、私にとって、大変意義深いものになりました。

一階の見学が終わり、いよいよ本館と言ってよい、二階に上がります。「プランテーションハウス」とは、要するに、「大農園経営者の事務所、及び本家」といったところでしょう。自宅に会社があるといってもいいかもしれません。スティーブンのツアーの後に話した、このプランテーションの現在の持ち主なのではないかと思われる女性(私の勝手な想像ですが)によると、この当時のプランテーションオーナーにとって、「ファミリーは、ビジネス」だったらしい。つまり、この家は、「サトウキビ工場の事務所」で、そこに家族が住んでいた、と考えていいと思います。ある意味で、この感覚は、一階に店舗があり、二階に家族が住んでいる個人経営の店主宅といった感覚に近いと思う。こう思うと、ぐっとプランテーションが身近に感じますが、確かに規模はもっと大きい。そしてここには、黒人の奴隷がいました。これは確かに、日本の昭和的な商店街にはないことです。




二階の一室には、黄色い紙に書かれたローラの回想記の最初のページが、壁に飾ってありました。この用紙を指し示しながら、スティーブンは、
「ご覧の通り、クレオール娘のローラが、英語でこの随筆を書いています。」
と言いました。この言葉からも、彼が「クレオール人」を「フランス人」として使っているのがわかるでしょう。フランス語を日常会話に使っていたクレオール人が、なぜ英語で回想記を書いたのか。それは彼女が娘達に、古いプランテーションでの生活を書き残しておきたかったからです。この回想記は1993年、ローラの嫁ぎ先のセントルイスで発見されました。現在の「ローラ」の所有者が、必死で探し回った快挙です。この現在の所有者夫婦は、この回想録「Memories of the Old Plantation Home」(古いプランテーションでの思い出)を、彼ら自身が調査し、発見した歴史も書き加え、2001年に出版しています。この本が私がフレンチクォーターで見た本です。

二階には、高いベッドが置いてある部屋がありました。何でも、プランテーション初代所有者の長男は、パリで教育を受けたドイツ人と結婚し、美しい娘を持つのですが、彼女が16歳の時、パリで「ニキビ」の治療を受けさせ、それが原因で娘を亡くすという悲劇があったらしいです。そのことを悔い続けた母親は、生涯、そのベッドルームから出なかったということです。そんなことをガイドのスティーブンは説明しましたが、このことは、ローラの回想記にも出てきます。



家の中を一通り見て回ると、今度は外に行きました。まず最初に目に入るのが、「屋外キッチン」。この頃は、火事を恐れてか、屋外に台所があるのが普通だったそうです。今は廃墟と化してしまいましたが、プランテーション全盛期には、ここから母屋に食事が運ばれました。その近くには「キッチンガーデン」があり、自足時給だったようですね。キッチンガーデンの隣には「バナナの木」があり、そのバナナにもいろんな種類があり、アイスクリームにしたりと、色々違った食べ方があったようです。


そして次にスティーブンは、私達を屋根が付いた休憩所みたいな所に連れて行きました。雨が降ってきたので、雨宿りにもなったその場所には、なんと、プランテーションにいた奴隷達の値段表がありました。こうやって目の当たりにすると、本当に人間を「飼っていた」のだと、実感。奴隷たちにも色々違ったスキルがあり、やっぱりスキルが高い奴隷は、値段も高かったそうです。ローラが書いた回想記の中には、彼女のお祖母さんエリザベスが、奴隷に向かって暴言を吐いたり、もっとひどいことには、逃亡した奴隷に、焼印を押したことが出てきます。




次に私達は、奴隷達が住んでいた小屋に行きました。小屋はとても小さく、ここにたくさんの人間が住んでいたとは信じられません。小屋の中には、このプランテーションを所有している人達が作ったビデオが置かれていて、その宣伝と共に、同じ会社が主催しているニューオリンズのフレンチクォーターでのツアーについても語られました。私達はこの日、ルイジアナを出発しなければならなかったので、そのツアーに参加できなかったのですが、今度ニューオリンズに行く時は、絶対参加したいツアーです。ローラたちが住んでいたフレンチクォーターの家や、墓地なんかが見れるそうです。このツアーのことがあんまり気になって、ホームページにアクセスしてみると、ローラの家族の家系図が載っていました。そして、よく見てみると、なんと、ローラのお父さんと奴隷女性の間に、子供が生まれていたことを発見!ショックです!このこと自体は、ローラが書いた本には出てこないのですが、このお父さんの子供を生んだ黒人女性は、ローラの乳母として雇われ、彼女の子供も、このプランテーション内に住んでいたようです。この女性が奴隷として彼女のプランテーションにやってきたことを、ローラは、「とても幸運な方法で、彼女がやってきた」と書いています。ということは、彼女はこの乳母の子供が、彼女の腹違いの兄だと知っていたのでしょか?そしてローラの母は、この関係を知っていたんでしょうか?不思議です。ローラの母は、彼女の夫の母(つまりローラのお祖母さん、エリザベス)が、この女性を奴隷売買人に売り払おうとしている所を目撃し、夫に報告します。それに激怒した夫は、その場に駆けつけ、奴隷商人を追い払います。ということは、ローラのお母さんが、子供と離れ離れに売り飛ばされそうになっている、夫の子供を生んだ奴隷を助けたということになります。もし、彼女がその関係を知っていたら、こんな天使のような行動が取れたでしょうか?ローラの本によると、このお母さんは、とても優しい女性で、奴隷達にも、とても尽くしていたそうです。もしかしたら、そんな人なら、全てを知っていても、やっぱり助けたのかもしれません。が、私は事実は知りません。今度、ルイジアナに行ったら、絶対掘り出したいリサーチ要!重要項目です。

こんな風に、1時間くらいのツアーは終了しました。この後、最初の土産物売り場に戻り、ポストカードを買って、「ローラ」を後にすることにしました。

本当なら、時間があったら、他のプランテーションも見てみたかったのですが、なんせこの日は、ミズーリ州のセントルイスに向けて出発しなければならなかったので、そんな余裕もなく、その後、「ローラ」のすぐ近くにあるプランテーションを2軒だけ、外から見ました。



その2軒のうちの1軒は、トム・クルーズと、ブラッド・ピットの映画「Interview with the Vampire」が撮影された「Oak Alley」。ここに、トム・クルーズとブラッド・ピットが来たかと思うと、雨が降るのもなんのその、頑張って写真撮りました。晴れてたら、もっといい写真が取れたのにねぇと、ちょっと残念です。


この後、せめてランチをここの辺りで食べようと、ドライブすると、「ローラ」のすぐ近くに、「シーフード」と書かれたレストランを発見!ここなら、念願のザリガニも食べられるかもしれないと、期待いっぱいで中に入りました。最初に入った所は、地元の人のための食料品店なのか、魚屋のような雰囲気でした。その奥に通された部屋は、田舎のレストラン!といった感じで、あ~こういうのに来たかったのよね、と私は大満足。壁には、昔のこの地方の写真がたくさん飾られていて、「ローラ」の看板もありました。



これがその写真で、左から、Louis de Meziere Duparc (初代プランテーション所有者の長男、娘をニキビの治療で亡くす。ローラのお祖母さんの兄)、Elisabeth Duparc(初代プランテーション所有者の娘。プランテーションを相続。ローラのお祖母さん。奴隷に焼印を押したり、子供と離れ離れに奴隷を売り飛ばそうとしたのは、この人です)、ローラ、Nanette Prud'Homme Duparc(ローラの曾おばあさん、初代プランテーション所有者Guillaume DuParcと結婚)、Desiree Archinard(ローラの母)です。

このレストランは、お勧めです。ここでやっと念願の「茹でたザリガニ」とガンボを食べました!ガンボ、おいしかった~。ザリガニも、おいしかった~!このザリガニは、ただ単に茹でてあるだけじゃなくて、ケージャン料理のスパイシーな調味料が使われていたようです。この青いザルのようなトレイに入れられ、ドーンと登場!これで、確か5ドル以下だったから、信じられないくらいお得です。ニューオリンズのフレンチクォーターでは、絶対こんな値段では食べられないはず。本当のケージャン料理を食べたいなら、こんなルイジアナ州の田舎までドライブして、本当に地味なレストランに入ってみるべきだと思います。ガンボもおいしかったです。ここで初めて、「ルイジアナに来て良かった」としみじみと思ったくらい、感激いっぱい。プランテーションツアーに行くなら、絶対立ち寄ってください!念のため、住所も書いときます!

2155 Highway 18, Vacherie

ニューオリンズからドライブすれば、「ローラ」に着くすぐ前に、このレストランが見えてきます。(ちなみに「ローラ」の住所は、2247 Highway 18, Vacherie。すぐ近くなのがわかってもらえるでしょうか。)

こんなに長々と、プランテーションツアーについて書いてしまいましたが、この食事の後、セントルイスに向けて出発します。この時は既に午後3時くらい。夜中の2時近くまでドライブして、セントルイスの近くの街のホテルに到着します。(ということは、11時間のドライブだったということね。)最後は夢の中で運転しているようでした。このことは、次回までお楽しみに!

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