2011年10月16日日曜日

ウィルソンズ・クリーク国立戦場跡1



 ブランソン最後の日の朝、私達には、この地でやらなければならない事が残っていた。それは、前夜の「ショージ・タブチ」のチケットを、払い戻ししてもらう事だ。あのいい加減なチケット売りのおかげで、夫が一番楽しみにしていたショーに行けなかったのである。割引チケットは、翌日「タイムシェア」のセミナーに参加することが条件となっていたが、この惨事に、そんな物に参加する気は毛頭無いと告げる決意を、私達はしていた。

 カウンターで随分待たされ、やっと出てきたマネージャーは、随分横柄な印象を受ける女性だった。夫は、「今日、セミナーに出るつもりはありません。100ドル返してもらって、とっとと帰ります」と言っている。ちょっと待った、と妻は思った。「100ドル」とは、あまりにも謙虚過ぎると言う話しである。ショージ・タブチのチケットは、二人で100ドル以上するのだ。せっかくのブランソン旅行を打ち壊しにされただけでなく、損をしなければならないなんて、そんなのは言語道断!と、私は、カウンターから身を乗り出して、交渉に入った。「私達がショージ・タブチのショーを見れなかったのは、私達の責任ではなく、あなたの従業員のミスのせいです。それさえ無ければ、私達は、ショーを十分に楽しめたはずです。その最後の夜の楽しみを打ち壊しにされんですから、きちんとお詫びをしていただきたいです。大体、チケットは、100ドル以上しているんですから、1セント残らず、返金していただく必要があります。それに、割引を前提にしているのに、何も割引を受けられなかったのですから、私達は、もう少し待遇が良くても良いはずです」といった内容の事を、隣に居た夫が無口になるくらい、ドラマチックにしゃべりまくった。こういう時、開き直った妻というのは、なぜにこんなに強いのだろうと、自分でも感心した。これが効果を発揮し、チケット全額の返金はもちろん、全国各地で使えるレストラン券を、50ドル分も貰った。それを、「渋々承諾してあげるが、これは、善意でやってあげているんだ」という顔をして受け取ったが、本当は、とても嬉しかった。カンザスシティーに帰ってから、このレストラン券で、メキシカンレストランに2回行った。

 こんな朝を過し、マクドナルドのドライブスルーでチキンバーガーを購入した私達は、ブランソン近郊のミズーリ州スプリングフィールドに向けて出発した。夫はスプリングフィールドに友人が居り、彼に会いたいと言う。ここで私に選択権が与えられた。夫と一緒に友人に会いに行っても良いが、それは私にとって、非常に退屈になるのは、明らかだ。それで私は、スプリングフィールドでは別行動をし、一人で観光する事に決めた。夫は「大丈夫?」とかなり心配顔であったが、「帰りに迎えにきてくれる事さえ忘れなければ、私は大丈夫よ」と言った。それで私が選んだ場所と言うのが、「ウィルソンズ・クリーク国立戦場跡」という、南北戦争の博物館がある戦場跡地である。それほど大きな博物館ではないので、夫が帰ってくるまで、時間が潰せるかどうか、心配がないでも無いが、外の戦場跡地は公園になっており、そこをハイキングすることもできる。「大丈夫」と私は思った。後に夫は、大学で「南北戦争」の授業を取り、この時、私と一緒に博物館巡りをしなかった事を、後悔するのだが、それでも私がこの時購入した「ウィルソンズ・クリークの戦い」という小さな本を元に、レポートを書いた。

 夫の赤いピックアップトラックが去って行くのを見届け、私はビジターセンターの中に入った。ビジターセンター近くの博物館は、通常なら入場料がかかるのだが、この年が南北戦争150周年記念であったので、なんと無料で入る事ができるらしい。「的を得た選択をした」という充実感があった。ビジターセンター入口に南北戦争、特に「ウィルソンズ・クリークの戦い」に関する本が沢山ある土産物店があった。そこで時間を潰した後、「ウィルソンズ・クリークの戦い」を要約した30分くらいの映画を見た。この映画の中で一番私の関心を惹いたのが、ミズーリ州は北軍、南軍の境界線にあり、同じ家族内でも北軍に付いた者、南軍に付いた者と分かれる事があったそうだ。兵隊としてかり出された者の多くは、突然軍隊が家にやって来て、どうしようもないから、父親が戦争に行ったというケースで入隊したらしい。夫と私は、この日の前日、ブランソンのIMAX映画館で、オザーク地方の歴史に関する映画を見た。その中でも、ある家族の父親が戦争に連れて行かれて、戦地で自分の弟が敵軍にいるのを見つける。自分の軍が弟を追っているのを止めて、「彼は自分の弟だから」と命乞いをするシーンで、私は涙を流したものだ。そのすぐ翌日に、今度は国立博物館で同じような内容を見て、やはりあれは本当だったんだと、随分納得したのだ。


(南軍と北軍に分かれた兄弟の写真)

 「ウィルソンズ・クリークの戦い」は、1861年8月10日に行われた、ミシシッピ川以西で最大規模の南北戦争の一部である。今年は、丁度150周年に当たるので、大々的に”Reenactment”、「戦争の再上演」を行うらしく、博物館の所々に、「出演者募集」のポスターが貼ってあった。それには、「ヒストリーチャンネル」という歴史に関する番組ばかりを放送するテレビ局が、撮影に来るという事だった。南北戦争があった地では、毎年、南北戦争時の兵隊の格好をした人々が、本当に鉄砲や大砲を持って(と言っても、多分、弾丸は詰められていないのだろうが)、野原で南北戦争の再演をする。後にインターネットで今年の様子をビデオで見たが、北軍は紺色、南軍はグレーの制服であったのに、ここでの兵士達は、普通の薄汚いシャツを来ている人が多かった。それだけ「寄せ集め」の兵士達が多かったと言う事だろうか。 http://www.youtube.com/watch?v=kF7cp_azXSo&feature=related

 当初、ミズーリ州は中立の立場を表明していたが、南部州寄りのミズーリ州知事、クレイボーン・フォックス・ジャクソンが、南部諸州の独立に加担する。リンカーン大統領からの兵力要請を拒否し、ミズーリ州軍をセントルイス郊外のキャンプ・ジャクソンに集結。北軍の武器庫を破壊しようとする。しかし北軍の准将ナザニエル・ライヨンは、ジャクソンの動きを事前に察知し、武器をイリノイ州に移動していた。その後、州都ジェファーソンシティーを攻め落とし、州知事ジャクソンとミズーリ州軍をミズーリ州南西に追いやったライヨンは、ミズーリ州を北軍側に留め、兵力を増強した。

 しかしその後、ミズーリ州軍は南軍と合流し、スプリングフィールドに待機する。その数一万二千人。対する北軍の兵力は、六千人程だったらしい。兵力は圧倒的に劣る事を知りながらも、北軍のライヨン准将は、南軍を不意打ちするため、1861年8月10日早朝、進軍する。奇しくも、南軍のマックコーリック司令官も、北軍奇襲を計画していた。このような状態で開始された戦争の死者はあまりにも多く、北軍1,317兵、南軍1,222兵が命を落とす。

 1861年に開始された南北戦争は、1865年春に終結するが、ミズーリ州は、全国第三番目に戦闘数が多い州となる。今年は、ウィルソンズ・クリークがあるスプリングフィールド以外でも、150周年を迎えた戦場がミズーリ州に多くあり、Reenactmentが開催されていた。それだけミズーリ州は、南北戦争の傷跡が深かった地だと言えよう。北軍准将のナザニエル・ライヨンは、このウィルソンズ・クリークで命を落とし、南北戦争の北軍で最初に戦死した将軍となった。

(ミズーリ州内で勃発した南北戦争地を見たい方は、下のウェッブサイトをクリックしてください。地図が見られます!)

http://maps.google.com/maps/ms?hl=en&ie=UTF8&t=h&msa=0&msid=204646866071467967500.00049de92664fcff58dc9&ll=38.427774,-92.329102&spn=8.259677,14.0625&z=6&source=embed

 映画を見終わった後は、博物館内を見学した。



上の写真は、「ウィルソンズ・クリークの戦い」当時の南部の旗。11個の星は、合衆国から脱退した11の南部諸州(最初に脱退したサウスカロライナ州、ミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州と、南北戦争開戦後に脱退したバージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州)を表している。左上の角が切れているいるため、この旗は10個の星しかないのだが、下の写真の旗には11個全て入っている。



と言っても、上の写真では星1個が中央にあるのに対し、下の写真は全て丸になっていると、デザインが少々違う。合衆国から最初に脱退したのが6州だったため、一番最初の南部旗は、星6つだったそうだ。最終的に、ミズーリ州とケンタッキー州も脱退を表明した為、最終的には、星13個になったそうで、時代によって星の数は変化した。



上の写真は、北軍将軍のサミュエル・カーティスの制服。紺色である。



この写真は、北軍の兵士の制服。将軍の上等そうなコートに対し、こちらはもう少し庶民的である。





これら二つのグレーの制服は、南軍兵士の制服である。



南軍兵士の制服の下にあったこれらの品物は、その当時兵士達が携帯していたものだろうか。どうやら鞄の中に、マイ食器を携帯していたようである。



1897年に行なわれた「ブルー&グレー同窓会」のポスター。南北戦争が終了したのが1865年だが、その32年後には、「昔を懐かしむ」感覚で、ブルー(北軍)とグレー(南軍)が一同に会したのだろうか。



この写真の中にある茶色に古びた写真が、どうやらその時の様子のように思われる。一番下の白い紙に、"Souvenir of the Wilson Creek National Reunion of the Blue and Gray, Springfield MO Aug. 9th to 14th, 1897"と書かれているので、バッジやメダルのようなものは、その時に出たお土産だったのだろうか。



フラッシュが反射して見苦しいのが申し訳ないが、博物館にあったこの絵の中に居る南軍兵士達は、確かに不揃いのシャツを着ている。



これに対し、北軍の兵士達は、きちんと紺色の制服を着ているのを見ると、北軍の方がより統一、訓練された兵士だったのだろう。

この南軍兵士達の制服の不統一は、実は、北軍に大きく不利に働く。南軍の兵士達が北軍に近づいた時、北軍はそれを味方の援護部隊と勘違いし、かなり至近距離に来るまで彼らを待つ。その結果南軍が攻撃し始め、ここで多くの北軍兵士が負傷するのだ。もしここで、北軍兵士が攻撃されなかったら、北軍の援護部隊でなく、南軍兵士達であったことを見抜いていたら、北軍はウィルソンズ・クリークで勝利していたかもしれない。実際のウィルソンズ・クリークの歴史は、北軍が退去するという結果で終わった。




展示を全て見終わり、館内にあった図書館に入ってみた。そこには、南北戦争の実際の記録が綴られた本が、所狭しと並べられていた。その片隅に、名前は分からないが、南北戦争の高官の絵が飾ってあった。紺色を着ているので、北軍の司令官の一人であろう。



こうして見学を終了し、この後、外の戦場跡地に行く事にした。

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