2011年10月21日金曜日

ウィルソンズ・クリーク国立戦場跡2



 博物館の見学を終えても、まだ夫が戻ってくると予告した時間まで間があったので、外の戦場跡を一人で歩く事にした。この時は春の先駆けで、新緑が美しい季節だった。この戦場跡地は、車でスポットまで行き、見学後、また次のスポットに移動するという、個人見学の形式を取っている。本来であれば車一台に付き10ドルの入場料が取られるのだが、150周年記念のため、これも無料だった。そこで私は、ビジターセンターで貰った無料の地図を片手に、テクテクと、アスファルトの車道を歩き始める。公園内の道なので、それほど車が通るわけではなく、安全に歩けた。時折、地元の人なのか、ジョギングをしている人とすれ違った。夫が迎えに来る時間が気になったので、とにかく第一番目のスポットまで歩いて、その後引き返し、車で一緒に全部見れば良いと思った。




 歩いている途中、川があった。これが「ウィルソンズ・クリーク」だろう、と思った。この地で、二千五百人以上もの兵士が死んだとは信じられない程、そこは、あまりにも長閑で美しかった。

 小さな駐車場がある第一番目のスポットは、「ギブソンの麦畑」だった。一枚説明書があったが、内容は覚えていない。周りは何か特別な物は無かったが、そこから続く小道を行くと、「ギブソンの家」に辿り着くらしい。そこからは車で行ける道ではなく、歩いて行かなければならない。傍らには、小学生の女の子二人とその父親が居た。父親が「ここからは歩いて行くんだね」と言うと、娘が、「どのくらい?」と聞く。父親が「1マイルくらいだよ」と言うと、娘は「そんなに歩きたくない」という。 公園全体の車道距離は5マイルくらいだが、車から降りて、全てのスポットを見ようとすると、かなりの歩行距離になると思う。私はここで引き返し、ビジターセンターの入り口で夫を待とうと、元の道を戻った。

 ビジターセンター前のピクニックテーブルで本を読んでいると、やっと夫が戻って来た。友人は誰かに会う約束があったらしく、あまり長い間話しはできなかったと言う事だ。それで早速、夫のピックアップトラックに乗り、戦場跡コースへと出発する。車窓から見る風景は、歩いている時と違って見えた。あまり感動しないのである。やはり自然を本当に楽しむには、実際に歩いてみないといけない。



 二番目のスポット「Ray House」に行く。ここは、このウィルソンズ・クリークに住んでいた「レイ家」の家だ。この家主John Rayは、テネシー州出身と言うので明らかに南部出身者で、二人の奴隷を所有していた。この地方の他の農民達よりはある程度裕福で、少なくとも八種類の農作物を作り、400エーカーの土地、五種類の家畜、そして奴隷を所有する他に、Julius Short(という多分、白人男性)を雇っていたという。こう書けば、「南部支持者」の典型と思われるかもしれないが、なんと、レイ家は北軍支持者だったのである。南北戦争時代のミズーリ州では、奴隷を所有していたから南部支持者で、奴隷を所有していなければ北軍支持者とは、言えなかったらしい。その典型例がジョン・レイで、彼はアメリカ合衆国(つまり北部の手中下)が運営する郵便システムを支える「ポスト・マスター」を務めていたのである。アメリカの郵政省は、1856年に設立されたそうだが、ジョン・レイは、ウィルソンズ・クリーク村の「郵便預かり屋」をしており、近隣の住民は、一週間に一度届く郵便を、レイの家まで取りに行っていたのだ。このような職務は、南部支持者ができる事ではなく、ジョン・レイは奴隷所有者でありながら、北部を支持していたのは明らかだ。



 1861年8月10日早朝、牧場で働いていたジョン・レイの三人の子供達は、馬の背に乗った兵士に、戦争がすぐに始まる事を警告され、それを両親に告げる。ジョンの妻ロザンナは、子供達、奴隷、そして雇い人のユリウス・ショートを連れて、地下室に逃げ込み、ジョン・レイは、自分のトウモロコシ畑で起こっている戦闘を目撃する。この戦争で怪我をしたレイ家の者はいないのだが、北軍が”Bloody Hill”からぶっ放した大砲は、レイ家の鶏小屋に命中する。南部軍の医者が「戦地病院」を示す「黄色い旗」をレイの家に掲げた為、その後は大砲の標的となる事は無かった。



「ウィルソンズ・クリーク1」で、上の写真は、北軍兵士達の制服が青かった事を説明する為に掲載したが、実はこの絵、北軍兵士達が通り過ぎてゆくのを目撃するレイ家らしい。現在、鶏小屋は無いのだが、確かに絵の中には自宅以外の建物があるので、その中の一つが鶏小屋だったのだろう。

 戦闘が静まるや否や、レイ家の納屋は、死傷者が運ばれる病院と化す。レイ家の家族も、井戸から水を運ぶ等、手当の手伝いをしたようだ。後に北軍将軍ナザニエル・ライヨンの遺体も運ばれ、妻のロザンナが、遺体を巻くベッドシーツを提供する。ここで興味深いのは、レイ家では、南北両軍の兵士達が、治療されたと言う事である。さっきまで殺し合いをしていたのに、すぐに仲良く一緒にいられたのだろうか。その当時「捕虜」という概念は、存在しなかったのだろうか?

 このような仮設病院となったのはレイ家だけでなく、ウィルソンズ・クリークのあちらこちらの家に、黄色い旗が立った。

 レイ家の家畜は全て、兵士達に略奪されたと言う事だ。

 レイ家の見学後、夫が「そろそろカンザスシティーに帰らないといけない」と言い出したので、残念ながら他のスポットは、車窓から見学するだけにとどまった。こうして、3時間程ドライブして、カンザスシティーに戻った。

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