2010年9月17日金曜日

ワトキンス羊毛紡績工場



 レイバーデーの前日、夫が「ワトキンスに行こう」と言った。ワトキンスとは、ミズーリ州ローソンにある「ワトキンス羊毛紡績工場」のことで、ミズーリ州管轄の公園の中にある。この工場と工場主の自宅が一般公開されており、ガイド付きツアーで見学することができる。インターネットで調べると、一時間に一回、自宅と工場のどちらかのツアーがあるようだ。そこで、レイバーデーの当日、夫と車に乗って、この公園まで出かけることにした。

 ワトキンスがあるローソンは、私たちが住んでいるカンザスシティーから30分ほど北に向かった小さな町だ。ここに、「ウォルタス・ロケット・ワトキンス」というケンタッキー州出身者が、19世紀、羊毛紡績工場を創設した。彼は最初、農園を開き、家畜を育てた他に、果樹園、トウモロコシ畑等も所有していたそうだ。公園に着くと、緑豊かな広大な敷地が延々と続き、曲がりくねった細い道を奥までドライブし、やっとビジターセンターを見つけた。



 ビジターセンターは、とても現代的で、清潔な建物だ。受付で「ツアーがあると聞いたのですが」と言うと、「3時から家のツアーが、4時から工場のツアーがあります」と返事があった。そこでそのツアーに参加することにし、待ち時間が少々あったので、館内の展示物を見学した。その当時の黒い馬車が、目の前にあった。以前、ルイジアナ州のプランテーションに行った時に、そのプランテーション領主「ローラ」が書いた本を購入したが、その本の中には、「馬車」が良く登場する。こんな感じの馬車だったのだろうか、と想いを馳せた。その奥には、機織り機があった。その機織り機を見ている時に、隣の部屋でビデオが始まったので、そのビデオを見ることにした。このワトキンスの農園と工場は、この地方一体の「デパート」みたいなもので、工場内にある店に、近くの農民が物々交換に来たそうだ。そんな歴史を少々習ったところで、ツアーの時間になったので、ビデオは途中だったが、ワトキンス氏の邸宅の方に急いだ。



その邸宅はブロック作りの大きな家で、ビジターセンターから少し歩かなければいけない。木が生い茂る道の向こうに、ビジターセンターの受付にいた女性がおり、白い柵の向こうを指差しながら、「あちらの家の前でお待ちください」と言う。そこで、その白い柵の中に入り、芝生を上って、家の前に行った。ブロックが少しはがれているものの、どっしりとした造りの家だ。その当時にしたら、大邸宅だったに違いない。そこに私たちの他に10人ほどの観光客が集まった。ツアーガイドはまず、私たちを家の横に連れて行き、この家にワトキンス氏の妻、子供はもちろん、母親等、親戚も住んでいたことを説明した。そして次に家の前に移り、玄関の鍵を開ける。玄関を入るとまず、豪華な階段が目に入った。ガイドの話によると、階段作りの専門家によって、何年もかかって作られたそうだ。ルイジアナ州のプランテーションでもそうだったが、こういう風に、自宅でビジネスを営んでいる家では、「一般の人が入る場所」と「家族が住む場所」は分かれていたようだ。もちろん、玄関を入った最初の場所は「外客用」で、19世紀の豪華な家具があった。



次に二階に上がると、何とも感じの良い机がある。小さな棚があり、書類を分類できる仕組みだ。その上にはガラス張りの本棚が備え付いており、年代を感じさせる。ガイドは、そこでワトキンスの秘書が働いていたと言った。





その机のすぐ隣は泊まり客用の部屋で、白い洗面器と水差しがあった。その当時の「泊まり客」とは、何週間、時には何ヶ月も滞在するのが当たり前で、ワトキンス氏の妻は、まるでホテルの受付のように、「何月何日までは、誰々さんが泊まっているから、その後なら泊まっても大丈夫」と、泊まり客のスケジュールを管理していたそうだ。こういう習慣があるから、アメリカの家には「ゲストルーム」というのが存在するのだろうかと思った。


その後、一階に降り、「家族のスペース」へと移行する。最初に見たのはリビングルームで、こちらは外客用の居間より、何となく和やかな感じがした。フレームに入った家族の写真が飾られており、暖炉も使用した形跡がある。本棚には、古い本がたくさんあった。私のアメリカの大学の図書館にあるような、古い本。きっと開ければ、少々埃っぽく、カビ臭い本なのだろうと、授業の調べ物で必要だった古い本を開いた時のことを思い出した。最初から気付いていたことだが、このツアーで写真を撮っているのは、私一人だけだ。きっと地元の人達で、レイバーデーを過ごすのに、ちょっと寄っただけという感じだったのだろうが、私たちとて、泊まりがけで行ったわけではない。ブログを書くおかげで、私は「ちょっとお出かけする時は、必ずカメラ持参」が当たり前になっているが、それでも、他のアメリカ人のツアー客と私との間には、明らかに違う物があった。彼らにとって、19世紀の家の中など、さほど珍しくないのだ。確かに、家具は普通の家の物よりは高級そうだが、これくらいの物であれば、「おばあさんの家」にある。そういった感があった。

この後、子供達の部屋等を見学し、家の外に出た。そこには「サマーキッチン」と呼ばれる屋外キッチンがあった。小さなブロック造りの小屋のような建物で、中には大きな料理用のストーブがあり、奥には食器が入った棚がある。私の家のキッチンより遥かに大きい。ここでワトキンス夫人は、時には親戚の女性等を雇いながら、料理をした。大家族で、ビジネスもしていたから、客をもてなす機会は多かっただろう。この頃の女性は長いスカートをはいており、料理中、暖炉の火がスカートに燃え移ったりしたそうだ。ツアーガイドは、このキッチンで、75名分の食事を作ったことがあるというから、かなり機能的なキッチンである。

サマーキッチンを見学した後、家のツアーは終了した。ガイドは、次の工場のツアーまで15分くらいあるから、外の施設を自由に見ても良いと言う。そこで、夫はまず、「スモークハウス」が見たいと言った。全て自給自足の農家である。自宅でハムを作るのは当たり前だったのだろう。写真の建物は、「氷保存室」。ルイジアナ州のプランテーションでも習ったが、電気が普及する前、人々は食物を地下に保存していたのだ。なので、きっとそんな所だろうと予想していたら、やっぱり、大きな穴があった。いや、穴と言うより、地下に一つの場所があると言った方が良いくらい、深く大きく、底には藁が敷いてある。そこに冬の間、川から氷を切り出し、夏のために保存していたのだろう。同じ小屋の中に、馬のくつわがあった。

その後、キッチンガーデンを見学する。様々なハーブや野菜が植わっており、こんなガーデンがもてたら良いなと思う。その横には、鶏を囲っている場所があった。日本の白い鶏とは、ずいぶん違う。カントリー風のグッズが売っている店にある置物のような鶏がいた。どうしてああいう風な置物になるのか、納得した。






時間が気になったので、工場の方に急ぐ。三階建てのブロック造りの茶色い建物の前には、制服を着たボランティアのガイドと、一組の夫婦がいた。私たちが到着すると、ガイドは「これで全員ですかね」と、ツアーを始めた。初老の細身な男性で、きっと定年退職しているのだろう。しかし、ボランティアと言うのだから、無給でこんな仕事をしているのだろうか。ずいぶん善良な人だと思った。

工場の後ろには、木を組み合わせた物があり、まるで「ボンファイヤー」のようだ。ずいぶん緑が美しい場所である。こんな場所を、馬車で揺られながら旅してみれば、さぞかし気持ちが良いだろう。

ガイドは私たちを「ボイルルーム」に連れて行った。この工場が創業されたのは、南北戦争が始まった1861年で、この時代には既に蒸気船も発明されており、工場は全て蒸気で運転されていたようだ。ガイドが説明することはかなり専門的で、私には理解できないことが多かったが、寡黙な私に比べ、夫は興味をもったらしく、色々質問をしている。巨大な蒸気運転ルームの隣は、羊から刈ったばかりの毛を洗浄する場所だった。初めそれが羊の毛だと私は気付かず、「綿花でも作っていたんですか?」と、間抜けな質問をしそうになった。しかし、この工場の名前に「Woolen」という言葉が入っているのを思い出し、「綿花であるわけがないか」と思い直した。そうか、羊の毛から糸を紡ぎだしていたんだと、もう少し前に気付いても良さそうなことに気付く。日本で「ウール」と言えば、「ウールマーク」が付いた高級なセーターを思い出しそうだが、なんだか趣が違う。そこで見た布は、なんだか雑な安物カーペットといった感じなのである。ウール製と言っても、ピンからキリまであるのだと思った。そのフワフワした羊の毛の塊は、何度も機械にかけられ、糸のようになる。短い羊の毛が、どうして糸状になるのかと言うと、つまり「よじる」のである。そしてドンドン長く細くなる。よじってあるから、強さも増す。きっとコットンも、同じ要領なのだろう。なんせ羊の毛の塊を、「コットン?」と思った人間が、この世に一人はいるのだから。









ワトキンス氏は、労働者に社宅や賃金を保証したため、遠い所ではヨーロッパからも、就職願いの手紙が舞い込んだそうだ。その当時の女子にとって、花形の仕事だったらしい。しかし現代のように、労働環境に気を配るという概念は無かったから、病気になった人も多く、長く続けられる仕事ではなかったようである。紡績の工程で化学物質が発生するらしく、そこから病気になる人もいる。工場内には電気が無いから、陽の明かりだけで作業をしなければならない。暗い工場で大きな機械を運転するのは、危険が伴う仕事だ。機織りに使う木の棒が、ピューンと飛ぶこともあったらしい。飛んだ棒が当たり、壁には銃弾のような穴があいている場所もあった。


ガイドは、ワトキンス氏は研究熱心で、色の調合を書き付けたノートが残っていると言った。虫をすりつぶした赤とか、なんとかという葉っぱからとか、自然配合だったらしい。今の言葉で言えば、オーガニックといったところである。ミズーリ州原産の固い植物があり、それは、羊毛を整えるためのくし代わりに使われた。ガイドがそれを私たちに触らせてくれたが、まるで生け花の剣山のように固かった。その植物を鉄の棒の間に詰めて使うのである。私にとっては珍しかったので、写真を撮った。

工場内には、フエルト布を作る機械もあった。それまで、フエルトが羊毛で作られているとは知らなかった。フエルトは、圧縮されて作られることも知らなかった。知らないことだらけである。羊の毛と言っても、身体の部分によって品質の善し悪しが違うらしい。大抵は全部まとめて作られるのだが、お金持ちの客の中には、最上級品だけを注文する人もいたそうだ。

工場ツアーの最後は、ビデオに出ていた「お店」だった。近隣の農民が物々交換をした場所である。その場所は意外に小さく、薄暗い。この近辺では、ここが唯一の店だったと思うと、感慨深いものがあった。ここでツアーは終了し、ガイドに礼を言って、工場を跡にした。外に出るとまだ明るい。敷地内には羊が飼われていた。最盛期には五千頭もいたという。現在はのんびりと少数の羊がいるだけだ。私たちと一緒にツアーに参加していた夫婦が、手をつないで、緑のトンネルを歩いて行った。車に戻り、公園内の湖を少し見学した後、カンザスシティーに向けて、出発した。


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