2012年9月30日日曜日

アーカンソー州バッファロー・ナショナル・リバーへの旅6/乗馬!



 短過ぎたカヌーにがっかりした夫が、「これを埋め合わせるのに出来る事」としてあげたのが、「乗馬!」だ。夫は幼い時、テネシー州にある親戚の農場に、毎年夏訪れており、乗馬の経験がかなりあるという。私はと言えば、夫が期待していた程長くなかったとは言え、2時間半カヌーを漕ぎ続けて、腕が結構痛かった。しかし、せっかくここまでやって来たのだから、夫がやりたいことをやらせてあげるのが、立派な妻!と思い、乗馬行きに同意した。

 夫はパークレンジャー事務所で貰ったパンフレットにある番号に電話をかけた。最初、「3時間コース」に参加する予定だったが、キャビンで昼寝をしている間に時間が無くなって、「2時間コース」に変更した。電話に出た女性に道順を聞き、車に乗って出かけたが、またまた、行けども行けども、目標とする場所が出てこない。私達はキャビンから15分くらいと考えていたのだが、かれこれ、45分くらい走っている。「道を間違えたのに違いない!」と思い、引き返して、とある店に夫が入り店主に聞いてみると、「さっきまで走っていた道をもっと走っていったら、きっと見えるはず」と言われたそうだ。
「アーカンソー州の旅で『次の角を曲がったらある』と言われたら、その角から何マイルか聞け!」
今回の教訓である。

 その店の店主の言う通り、その「Trading Post」は、そのずーっと先にあった。結局、「市」を3つほど(4つかも、5つかも)越したと思う。その間に、これと言ったものが無いのも恐ろしい。この地方をドライブしていて、看板があり、「お店かしら?」と思うと、それは必ず教会だった。村に、「教会」しかないのだ。ラジオから流れてくる曲は、カントリーミュージックのみ。ラジオから聞いた曲の中に、「金曜日は~をし、(~の部分は忘れた)、土曜日は~をし、日曜日に教会に行く。こうして私はジーザス(キリストのこと)について学んだ!」という歌があった。は~、そうか。この山間に住んでいる人達は、そんな生活しかないのか。実際、二百年前の生活と、大して変わらないように見えた。(というのは、ショック状態にあった私の歪んだ眼差しを通してであるが...)




 「あそこに看板がある!」本当に猛スピードで駐車場に到着した。そこには、既に馬に乗った人が二人おり、私達を待っていた。私達は40分以上遅れたのに、そんなに長い間、待っていたのか?大変申し訳ないと思った。店内で訳もわからないままサインをし、馬に乗る。馬に乗る時には、横に階段付きの台があり、それから馬に跨る。足を所定の位置に載せ、手綱を握り締めると、スタッフが、「右に行きたい時は、ちょいと右に引っ張り、左に行きたい時は左にちょいと引っ張り、止まりたい時は後ろに引く」と言う。それですぐに出発だ。「え、説明は、これだけ?」そのようである。心の準備もままならないまま、私の馬は歩き出した。




 人生の中でそれまで一度も乗馬をしたことが無いのに、私は突然2時間コースのトレイルを馬に乗って始めたのだ。いきなり、車道を越えなければならない。何をすれば良いのか、全くわからなかった。後ろにいる夫に、「馬がわかってるよね?」(お願いだ、わかっていると言ってくれ!)と聞いたら、「大丈夫。わかってるよ」と言う。しかしだ。車道と森の間にある細い空間を歩いていた私の馬は、前の馬達よりかなりノッタラ、ヘッタラして、かなりの隔たりがあり、挙句の果てには、草を食べ始めた!え~、どうしたらいいのよ~!でも、「お腹が空いてるのかしらね」と、そのまま、草を食べさせてあげた。私達のグループの反対方向から、馬に乗ってやって来た男性が、「手綱を引きすぎているから、馬が『止まれ』と思っているんだよ」と教えてくれた。「へ~、そんなもんですかい」と思った。しかしこの男、普段の生活で、馬に乗って移動しているように見えた。すごい所に来たもんだ。

 それでも私の黒馬ハリエットは言う事を聞いてくれず、(と言っても、何を言ったら良いのかわからず、私から発したメッセージは無いのだが)、とうとう先頭にいたガイドが私の所に来て、「自分がやるから」といって、ハリエットに綱を引っ掛け、彼がその綱を持ってくれた。これで私はストレス無しに乗馬を楽しむ事ができるようになった。その後は、ハリエットも従順に歩いてくれる。俯いて黙々と歩く馬の背を見て、「まあ、可哀想に。こんな事毎日やってるのね。」と思った。我が家の愛犬ボジョと歩いているような気がした。後にガイドが、「馬には厳しくしないと、なめられちゃうよ」と言ったが、「なめられても良いから、動物愛護家の私には、厳しくできません!」と思った。

 ガイドはたまに振り返って、話しをしていたが、彼の話す英語を、私は殆ど理解できなかった。彼はアーカンソー出身ではなく、オクラホマ出身と言う事だ。それまでカウボーイとして人生を生きてきたのだろう。途中でタバコを吸いだし、唾をぺっと履きだす。この辺は随分カウボーイだと思った。多分彼は、都会のオフィスでは働けないだろう。しかし、こうやって馬に乗っていれば、大会社の社長よりずっと実用的で頼りになる「なくてはならない人」で、今の私の命は、この人にかかっているのだ!

 ガイドは、「馬は走るための靴を履いていないから、走らせないように」と言ったが、もちろん、私がそんなことをするわけがない。ただただ、黙々と馬の背に揺られ、コースが無事終了することを願った。3時間コースでなくて良かったと思った。馬に乗るのは、随分痛いのだ。こんな事を一日に何時間も毎日している人がいる事が信じられなかった。森の中を降りている時は特に痛く、馬の長くて細い足が、私を載せて大丈夫なのかと心配した。それでも馬は、何とか森を通り抜け、また車道を超え、今度は反対側の森の中に入っていった。そこは結構大きな道になっており、最初のコースより楽だった。以前、馬車に乗った人々を襲う悪い奴等が出てくる映画を見たことがあったが、そんな感じだった。夫が「ここに、熊はいるのか?」とガイドに聞いたら、ガイドは「居る」という。少々引いている夫に、「でも、熊はちゃんと自分の行動範囲を知っていて、人間に出くわす事は滅多にない」と言った。

 折り返し地点に来て、また元の道を引き返した。途中で細い所があり、私の左膝が木に当たった。超痛かった!馬は自分が通れれば良いと思っているようで、私の足のことなどお構いなしだ。なので、自分で木を避けなければならない。その後からは足を動かして、木にぶつからないようにした。


 
 やっと出発点に戻り、トレイル終了である。最初に使った台に乗った時、しばらく動けなかった。打った膝が痛く、歩けるか心配だった程だ。それでもしばらくしたら回復し、敷地内を少々歩き回った。なんと不覚な事に、カメラを入口に置き忘れ、馬に乗っている間は写真が取れなかったのだ。それで、馬達の写真をやっと取り出した。




 ガイドに頼んで、私達の写真を撮ってもらった。写真を撮ることに慣れていないのは明らかで、シャッターを切る時に手が揺れているのがわかったが、それでも、なんとか一枚取れている。私は彼から、随分いろんなことを学んだ気がした。アメリカ開拓時代の人々を見たといったら失礼かもしれないが、その時代から抜き出てきたような人だった。ふと彼が撮った写真を見ると、「南部旗」が掲げられているではないか。南部に居るのだ。

2012年9月28日金曜日

アーカンソー州バッファロー・ナショナル・リバーの旅5/カヌーに初挑戦!



 到着二日目は、私にとって人生初のカヌーに挑戦!前日ラッシュの岸辺で出会ったカヌー業者に、夫が電話したがつながらず、キャビン近くの店Wild Bill's Outfitterで、カヌーを借りる事にした。6時間コースに申し込み、指定された集合場所に車を走らせると、カヌーを積んだトラックがやって来る。運転手の他に、若いカップルが一組居た。そのトラックに乗り込み、4マイル上流の岸辺に降ろされ、そこから下流になる最初の集合場所まで自分達でカヌーを漕いで戻るという事だ。運転手は私達にライフジャケットを貸してくれたが、着方が良くわからない。それで、「これを着て水に浮かぶ事はできるかもしれないが、首が絞められて死ぬかもしれない」と言うと、運転手も夫も笑っていた。どう見ても水不足のこの川、ライフジャケットを着る必要があるのかと聞くと、運転手は「無い」と言う。規則だからやっているのだろうが、万が一ひっくり返って川に落ちても、足が充分届く深さなのだ。それどころか、水が無くなってカヌーが漕げなくなるほうが心配なほど、水は浅い。それでそのライフジャケットは運転手に返し、持参したクーラーボックスとタオルを積んで、いざ出発だ!




 この写真は、出発前に運転手に撮って貰った。二人だけで旅行していると、誰かに頼まない限り二人の写真が撮れないので、私は機会があれば頼むようにしているのだが、夫が、「日本人の君に頼まれたら、誰でも嫌とは言えないよな~!」と笑っていた。そんなもんかい。



 一緒にトラックに乗っていた若いカップルは、あっという間に漕ぎ出し、既に見えなくなっていた。トラックの中での話しによると、以前にも来たことがあるらしく、私達よりも遥かに経験がありそうだった。




 カヌーは一旦漕ぎ出せば、そんなに難しくない。私が前に乗り、夫が後ろに乗った。旅行に出る前に、これまたYouTubeのビデオで、「転覆しないカヌーの乗り方」を学んだ私達だ。要するにそのビデオによると、カヌーで転覆したくなかったら、なるべく重心を低く取るべきだと言っていた。上に重心があれば、それだけ揺れやすいので、膝を床に付けるのがベストだそうだ。「膝を突いていたら、痛くなるのでは?」という人には、下にマットを敷いたり、膝当てパット(バレーボール選手がつけるみたいなやつ)を装着せよと言っていた。

 しかししかしだ。「なんか前に進まないな」と思い、ふっと振り返ると、なんと!





夫がビールを飲んでいた!!ちょっと、どういうこと!!私がこんなに一生懸命漕いでるのに!大体、私が撮った写真の中に、カヌー上に居る時に撮った写真は一枚も無い。いつも休止している時の写真だ。しかし、夫の携帯カメラで撮った写真は、漕いでいる時のものが殆ど。ああ、水の上にカヌーを漕いだ跡が見える。あれは、私が漕いだカヌーの跡だ!

 所々、深くなっている所もあれば、浅くなっている所もあり、たまに岩にぶつかりそうになる時もある。そんな時は、急いで方向転換をさせないといけない。途中、夫が「泳ごう!」というので、岸辺に上がり、水着は着ていなかったが、水の中に浸かってみた。周りに魚がいる時もある。水は結構奇麗だった。



 さて、6時間コースに参加した私達だ。お弁当持参で出発した。お弁当はもちろん、「おにぎり。」夫と結婚して、つくづく良かったと思うのが、彼が日本食好きである事だ。特にお寿司とおにぎりは大好きで、「今度いつ会社の皆に寿司作ってくれるの?」と、せがむほどである。この日の朝、おにぎりの具が無い事に気付いた私は、なんと缶詰のコーンとインゲンをご飯に混ぜて握り、海苔で巻いた。それを、「うまい、うまい」と言って、喜んで食べるアメリカ人夫。ありがたい存在である。「他のアメリカ人にも、おにぎりを食べさせたいね~!」と言うほどだ。このおにぎりを、カヌーの上で食べた。



 かなり散らかっている私達のカヌーだが、結構準備万端で行った。カヌーに載せるものは全て水がかかると覚悟した方が賢明で、私達はカンザスシティから持参したクーラーボックスを持って行った。カヌーに載るか心配だったのだが、問題なくスッポリ入る。カメラも心配したが、私はクッション製のカメラバッグを持っており、漕いでいる時は写真を撮らなかったので、全く濡れなかった。ゴミや飲み物を川に流すのは厳禁で、見つかったら罰せられるらしい。

 こうして気持ちよくマイナスイオンを満喫し、美しい風景を愛でていた私達だが、ふと見ると、集合場所だった橋が見えてくるではないか!ということは、もうお終い?え!6時間コースなのに、たったの2時間半で着いてしまった!一日中カヌーをする事を夢見ていた夫は、がっくり頭を垂れて、その後かなり怒っていた。確かに私達(私)は、一生懸命漕いで、少々漕ぎすぎたのかもしれない。確かに途中で最初に出会ったカップルを追い越したかもしれない。しかしだ!6時間コースで、2時間半しかかからなかったということは、余りにも短すぎると言うものだ。川や水の深さによるのだろうが、4マイルで6時間は絶対かからない。私達も途中、何回か短い休憩を入れた。だから、漕いでいた時間は、多分2時間くらいだ。これからは、この経験を基準にカヌー業者選びをしなければと、今回のことは教訓になった。


2012年9月24日月曜日

アーカンソー州バッファロー・ナショナル・リバー4/ゴーストタウン・ラッシュ


 食料品をキャビンの冷蔵庫に入れ、かなり日の入り時間に近づいていたが、旅の時間は無駄にできぬと、キャビンから5マイルほどの「ラッシュ」というゴーストタウンに行った。地図は持っていなかったのだが、ドライブ中に「ラッシュ」の道標を見つけていたので、その方向に行けば見つかるだろうと思っていたのだ。角を曲がってすぐにあると思いきや、これまた延々と舗装されていない曲りくねった田舎道を走る。この地方では、「道標があったらそのすぐ近くにある」という概念は、捨てなければならないということに気付いた。都会に住んでいる人とは距離感がかなり違うようだ。「あそこの角を曲がってそこにある」ということは、「角を曲がってそこから5マイル、10マイルと走ったら見えてくる」と予測した方が、時間配分上、自分が後で苦労しないという事がわかったと言えば良いか。

 「ラッシュ」という地名は、「ゴールドラッシュ」のように、この地方で亜鉛が発見され、人々がこの地方にラッシュ(押し寄せる)したことに由来するらしい。1880年代に亜鉛が発見され、ピーク時の1910年代には五千人がこの山間に住んでおり、一日に二百トンもの亜鉛が採掘されたということだ。第一次世界大戦で、亜鉛の値段が急高騰し、ここには採掘会社の他、ホテル、郵便局、学校、店など、町として充分機能できる施設があったというから、驚きだ。町の店の主人は結婚式を挙げるライセンスも持っており、村の中で正式に結婚式があげられたそうだ。現在ここは、国立公園になっており、これら崩壊しかかった古い家は、保護されている。


 このトレイルは、午前中に行った「インディアン・ロックハウス・トレイル」とはかなり違って、車で中を行く事ができる。誰でも行けるし歴史も学べるので、お勧めだ。



 これは、「モーニング・スター採掘会社」の溶鉱炉。ここで掘り出した鉱物を溶かし精錬した。




 この崩壊しかかった様相から想像するのは難しいのだが、上の写真は、Taylor-MedleyStoreという店で、この村の社交場の一つだったようだ。ここは郵便局も兼ねており、切手を買ったり、郵便を出したり、受け取ったりできた。ここの主人は結婚式を司ることもできた。




 これがその当時の様子。店の前のポーチに村人達がくつろいでいる。このゴーストタウンから想像できないのだが、ここでソーダ水を飲んだり、ゴシップに花を咲かせていたのではないだろうか。村人達は、ここで食料品を買っていたということである。



 これが最後の店主Lee Medley。郵便局事務所になっている場所で、後ろに見える小さなボックスは、私書箱だろう。こうしてみると、本当に機能していた町だったのだ。この店は1956年に閉店された。



 村の鍛冶屋。この当時、鍛冶屋は無くてはならない重要なビジネスだったようで、馬車の部品や馬の蹄鉄を作り、販売していたようだ。今で言えば、自動車部品のメーカー及び販売といったところだろうか。現在は存在しないが、この右側に部品を保存する倉庫があったそうだ。




 馬に馬具を着けているようである。




 鍛冶屋のすぐ近くに採掘会社の店と事務所があった。現在は残っていないのだが、この写真の左側が、Chase and Mulholland Storeで、右の建物がMorning Star Mine会社の事務所だ。1915年には83名がこの会社で働いており、炭鉱夫達は、この店で買い物をし、その支払いは給料から差し引きされたようだ。この建物は1920年後半まで使用されていた。




 実際に働いていた炭鉱夫達。亜鉛は黄色く、「七面鳥の脂肪」と呼ばれていたそうだ。



 これも想像するのが難しいのだが、これは製造所跡だ。ここで一日に二百トンの亜鉛が精錬された。1898年に建設され、蒸気で稼働させていたようだ。




 写真上は、1916年に行なわれた洗礼式の様子。こうして実際に川で水に浸り、洗礼を行なっていたようである。下の写真は、ラッシュにあった学校の生徒と先生達。




 一通り公園内にあるスポットは全て見て、奥の方までドライブした。走っている途中、川が見えた。あそこで洗礼式を行なったのだろうかと思った。更に走ると、キャンプ場があった。多分ここのキャンプ場はシャワーやトイレが無いのだろう。こういう風に、”Primitive camping"というのがあるが、シャワーもトイレも無しに、どうやってやっていくのだろうかと思う。

 行き止まりまで来ると、Buffalo National Riverのサインがあり、川まで降りられるようだった。そこで車から降り、歩いて川の岸辺まで行った。そこには水着を着た女性が一人居て、迎えの車を待っているようだった。彼女に「泳いでいたの?」と聞くと、「ええ、気持ちよかったわよ」と言う。そこには結構深い水があった。水に触ってみたが、結構温かい。すると、どこからかトラックがやって来て、カヌーを引き上げていた。ここはカヌーの到着地でもあるようだ。そこで夫は、そのカヌー業者に話しかけた。彼がくれた名刺にある電話番号に電話すれば、予約できるということだ。彼の話す英語は、私には少々聞き取りにくかった。ミズーリ州で「この英語わからない」ということは滅多に無いが、一つ南の州アーカンソー州まで来ると、かなり発音が違う。南部に居るんだなあと思った。

 こうして私達はキャビンに向かった。

2012年9月23日日曜日

アーカンソー州バッファロー・ナショナル・リバーへの旅3/イエルビルのバーベキューレストラン



 ハイキングの後は、イエルビルのダウンタウンまで行き、RazorBack Ribsというバーベキューレストランで「リブ」を食べた。


写真の中で後ろにあるのは、オクラのフライ。南部では何でもフライにするのか、こういう料理は多い。


 こちらはピクルスのフライ。食事はどれも美味しかった。

 給仕してくれた若いウウェイトレスに、町の様子を聞いた。この町には「ウォールマート」とスーパーが一軒あるそうだ。私達が宿泊したキャビンから13マイルで、やっとこれだけの規模の町に出れるということだ。

 この後、スーパーに行って、食料品を買出しした。結構大きなスーパーで、品ぞろいの多さに驚いた。夫の会社の食料品も売っていた。しかし、テレビの無いキャビンに滞在しているので、映画のビデオでも借りられればと思ったのだが、ビデオレンタルは、どこにも無かった。

2012年9月22日土曜日

アーカンソー州バッファロー・ナショナル・リバーへの旅2/インディアン・ロックハウス・トレイルをハイキング!



 バッファロー・ナショナル・リバー付近には、美しいトレイルが沢山ある。その中で私が最も興味を持ったのが、この「インディアン・ロックハウス・トレイル」である。幸いな事に、このトレイルは私達が滞在したバッファロー・ポイント近くにあり、最初のアクティビティーは、このトレイルをハイキングすることにした。


 その前に、パークレンジャーオフィスに寄って、情報を収集することにした。この後にカヌーもしたいと思っていたのだが、実際どの業者に頼めば良いのか、わからなかったのだ。私達に対応してくれたパークレンジャーは、とても親切に川の水の高さとか、天気予報等、地元の情報を教えてくれた。そこで彼に頼んで、事務所前で写真を撮ってもらった。



 実際のハイキング前にもう一軒、Wild Bill's Outfitter (http://www.wildbillsoutfitter.com/index.htm) という店に寄っている。ここで私達はハイキング用にそれぞれ新しい帽子を購入した。この店のオーナーは、キャビン経営とカヌーの運搬業もやっている。この地元では便利な店で、最低限必要な物は、ここで間に合いそうだった。ここで「バーベキューサンドイッチがある」と言われた夫は、もちろんその申し出を断ること無く、外のテーブルで食べることにした。

 ハイキング入口に到着し、やっとハイキング開始!と思いきや、なんと反対方向に進んでしまい、違うトレイルを歩いていた私達。それはそれで美しかったのだが、そこは私が行きたかった「インディアン・ロックハウス」ではない。歩いているうちに、またまた道を間違え、気付けば「パークレンジャー事務所」が見えるではないか!ああ、なんという時間のロス。がっくりだったが気を取り直して、またハイキング入口に戻り、今度は本道、「インディアン・ロックハウス・トレイル」にやっと入った。トレイルをグングン下に下りていく。下りるということは、帰って来るときに「上らなければならない」んだなあと思いながら歩いていた。最初の目印は、「Sinkhole Icebox」という穴だ。私達が訪れた時は、例年にない異常な水不足の時期で、この穴は乾いていた。特に興味も無く、次のスポットに移る。



 そこは、上の写真の「滝」だった。しかし、ここも水が殆ど無い!岩の上から、ポタポタ水が滴り落ちるという感じだ。それでも水があったことに感謝した。パークレンジャーは、「多分、滝に水は無いでしょう」と言っていたからだ。




 夫がどう思っていたか知らないが、このハイキング、結構良い運動である。景色は美しいが、上り下りが多い。




 滝からしばらく歩くと、「見捨てられた坑道」という穴がある。1880年代に亜鉛が発見され、この地方の人々は、一攫千金を狙い自分達の土地を掘り出したそうだ。しかし大抵は途中で諦め、このような見捨てられた坑道が残されたと言うわけだ。しかしここから八マイル下流の「ラッシュ」には、大規模な採掘会社が一日に二百トンもの亜鉛を掘り出していたという事である。

 「見捨てられた坑道」からしばらく、トレイル右側に「パンサー・クリーク」という、石がゴロゴロある場所を通る。多分、水がある季節ならここは小川になっているのだろうが、今年は異常な水不足で、ここには水が全く無かった。



 ここを通り過ぎると「小さな洞窟」が出てくるのだが、ここでなんと、他のハイカー達に出会った。ハイキングを始めてから人に出会ったのは初めてだったので驚いた。アーカンソー州のどこかの街からやって来た夫婦で、身体が少々麻痺している妻は、杖をついていた。健常者でも結構きついハイキングコースなのに、こんな所に歩いてやってくるとは驚いた。私達よりも早くスタートした彼らは、大きな岩があるこの場所で休憩していたが、夫の方が言うには、この「小さな洞窟」を最終目的地の「インディアン・ロックハウス」と勘違いしていたようだ。そこで私が、「いやいや、これは『小さな洞窟』で、『インディアン・ロックハウス』はもっと奥にあって、これよりも遥かに大きいはずだ」と言った。そして私がインターネットからコピーした地図を取り出して説明すると、彼はパークレンジャー事務所で貰った彼の地図と見比べて、「君の地図の方が詳しく描いてある」と言った。私は旅行を始める前にYouTubeのビデオ (http://www.youtube.com/watch?v=k737X0tlT2o) を見ており、「インディアン・ロックハウス」がどんなものであるか、ある程度知っていた。だからすぐここが最終目的地では無い事がわかったが、知らなかったらこれでお終いと勘違いしたかもしれない。こういったトレイルでは、周りに助けてくれる人が居ない為、ある程度の予備知識を持って出発した方が良いと思った。この「小さな洞窟」でしばらく写真を撮り、この夫婦に別れを告げて、私達は出発した。


 「小さな洞窟」から少し行くと、分かれ道に出た。そこには道標があり、私達は「インディアン・ロックハウス」の方に歩いていった。その先には黒く固い道があり、私は「まあ、ここからはアスファルト舗装の道なのね」と思ったが、本当は巨大な黒い岩だった。この地方の土地質が「岩」なのだ。なのでトレイルはその岩の上を歩く事になる。横には小川になるべき溝があったが、水は全く無かった。大きな岩の上に寝転がった夫は、「写真を撮って」と私に頼んだ。


そこから少し歩いた所に、やっと「インディアン・ロックハウス」があった。ここは、元々ネイティブ・アメリカン達が住んでいた洞窟だ。巨大な岩に穴が開いていて、そこがシェルターになっている。ここなら住めると思った。雨を凌ぐ屋根はあるし、洞窟の奥からは水が流れる音がする、ということは、下に小川があり、水があるのだ。洞窟内部から外を見ると、緑が美しい。左の方には、針の目のような穴が開いた岩があった。



 小川に降りて行くには、かなり急な崖を降りなければならず、体力に自信の無い私は、そんな事にチャレンジしようとは、微塵も思わなかった。



 このインディアン・ロックハウスを出発し、元来た道を戻っている時、「小さな洞窟」で出会った夫婦に再会した。身体に障害がある妻も、夫に支えられながら歩いてやってくる。彼らが諦めずにやって来たことが嬉しかった。ここまで来たら、あのインディアン・ロックハウスは見るべきだ。「あともう少しだから、頑張って」とその夫婦を励まし、私達はあの「分かれ道」に向かった。

 ここからが、問題なのである。地図を見ると、ここから「右」に曲がらなければならない。しかし私が見たところ、その右側は、水があれば「小川」になる場所なのである。旱魃で今は水が無いが、水が多い季節なら、こんな所を歩けるはずが無い!と勝手にセオリーを作り上げた私は、夫の「でも道標には、こっちって書いてあるよ」という言葉を押し切って、前にある、あの巨大な黒いアスファルトのような道を歩き出したのだ。そっちの方が、よっぽど快適なトレイルに見えた。しかし登るに連れて、だんだん道らしく無くなってくる。これはやっぱり、あのクリークを通って行かなければならなかったんだと思った時は、かなり上り詰めた後で、また降りて方向転換する気にはなれなかった。なのでひたすらその道を上に歩き続けたのだが、私はかなり不安だった。こんな所で迷子になったら、誰も助けに来てくれない!生きて帰るには、自分の足でここから脱出するしかないのだ!かなりドラマチックな考え(例えば、映画で見たような山の中の遭難シーン)が、頭の中をチラチラする。一方で私の勘違いの被害者の夫は、意外と楽観的で、「大丈夫だよ。この上を登って行けば、最初のトレイル入口付近に着くはずだ」と言っている。彼の言葉だけを頼りにひたすら歩き続けるが、かれこれ三時間近く休み無く山道を歩き続けているのだ。私はかなり疲れていた。「あ~、休憩は必要!」と思った時、夫が「あ、あそこは最初の「Sinkhole Icebox」スポットだ!あそこからトレイルに戻れるよ!」と言うのである!見上げれば、見覚えのあるトレイルがあるではないか!ああ、やっとやっと、これで遭難しなくて済む!ありがたや~と思っていると、夫は「自分はずっと、どこにいるかわかっていたよ。最初に歩いたトレイルを見下ろして、右側を歩いていたんだよ」と言う。確かに地図で見ると、その通りだろう。しかし、私にはそれが見えなかった。夫が冷静で良かった。感謝である。

 先に車まで戻った夫が、私を見ている。もう、クタクタだった。あの足の悪い妻は、ここまで戻ってこれるのだろうか?明らかに帰り道の方が登りが多いので、かなりきつい。でもとにかく頑張ろう!と、自分の足で車まで戻った。「あ~!!」と叫びまくっていた。「現代文明に帰還!」とか、訳のわからない事を。車のクーラー!水!動く車!舗装された車道!「あ~~!!」である。こうして私の夫は、少々頭がイカレタ妻を車に乗せ、出発した。