2010年2月28日日曜日

リバーロード、ルイジアナ州プランテーションを訪問



この日は、ニューオリンズのホテルを引き払い、ミシシッピー川流域にあるプランテーション地域を訪問しました。ニューオリンズ西方面から州都バトンルージュを流れるミシシッピー川流域は「リバーロード」と呼ばれ、綿花やサトウキビの栽培で巨額の富を得た大農園が、観光客を受け入れています。こうしたプランテーションハウスは、南北戦争で焼き払われたものが多いのですが、戦火を免れたか、戦後修復された大邸宅が一般公開されており、中にはホテルになっている所もあります。数あるプランテーションの中から、私達はホテルで勧められた「ローラ」に行くことにしました。上の写真が正面から見た「ローラ」です。ここのツアーは何でも、ルイジアナ州ナンバー1のアトラクションと認定され、興味深い歴史が学べます。

プランテーションハウス「ローラ」があるVacherieまでの道のりは1時間くらいで、周りは湿地帯や河や湖が広がっていました。ルイジアナはやはり、水が多い土地で、こんな所を開墾するのは大変だったはず。フランスからルイジアナへは当初、囚人や売春婦が送られたというから、シベリアに送られるのと同じような感覚だったのかもしれません。

車を運転している最中、夫がニューオリンズから出ているバスツアーに参加した方が良かったのではないかと、言い出しました。「ツアーに参加すればガイドが付くから、解説があって楽しい」というのです。しかし、この後セントルイスまでドライブする予定の私達に、そんな時間の余裕はありません。「ローラ」の駐車場に到着すると、そんなバスツアーがちょうど観光客を迎えに来たところでした。彼らはこの後、他のプランテーションに行くのでしょう。

車を降り、小雨が降りだした駐車場から急いで入った建物は土産物売り場で、そこからツアーが始まるようでした。レジをしていた若い従業員が「さっきツアーが出発したばかりですが、そのツアーに参加されますか?」と聞いてきましたが、私はできればツアー全てに参加したかったので、途中から参加するのは断りました。部屋の隅には、クレオールのプランテーションがどのように建てられたかを、科学的に解明するビデオが流れていました。そのビデオを最初は夫と一緒に見ていたのですが、私にとっては少し専門的過ぎたので、トイレに行くことにしました。トイレは違う棟にあり、一旦外に出なければなりませんでしたが、意外に清潔で、カウボーイ時代の映画に出てくるような、真ん中から両側に開く扉が付いていました。他の客が来なければ写真を撮っていたところですが、生憎、使用中の人がいたので、写真を撮るのはやめておきました。

土産物売り場に戻り、しばらくすると、私達のツアーの出発時間。それまでレジにいた若い従業員が、実は私達のツアーガイドのようでした。このガイドはあまりにも若く見えたので、私は地元の高校生のアルバイトだと思っていたら、どうやらもう少し年上の様子。少なくとも、歴史について勉強をしているという印象を持ちました。彼は私達夫婦ともう一組の夫婦を、プランテーションハウスの正面に連れてゆき、ツアーを開始しました。このツアーガイド、スティーブンはまず、「クレオール」のプランテーションハウスについて語り始めました。「クレオール」とは、植民地に移住した、またはそこで生まれたフランス人のことで、「黒人と白人の混血児」と解釈するのは、間違いだと思います。スティーブンも、「クレオール」という言葉を「フランス人」として使っていました。しかし、彼らの文化がアフリカ文化に影響を受けているのは確かで、この「ローラ」の外壁は黄色、緑色と、イギリス人が建てた白いプランテーションハウスとは、趣がかなり異なります。この「ローラ」は、アフリカの伝説「Brer Rabbit」が書かれた場所としても、有名らしいです。

このプランテーションハウスが「ローラ」と呼ばれているのは、最後の女領主の父が、彼女にちなんで名付けたからだそうです。この女領主ローラは、彼女の先祖がフランスからどのようにアメリカに渡って来たか、南北戦争をどのように生き残ったか、又、彼女の子供時代のプランテーションの暮らし等を記した回想録を残しています。私はニューオリンズのフレンチクォーターを歩いている時、偶然この本を売っている店に入りました。ニューオリンズで泊まったホテルのロビーで、プランテーションツアーのパンフレットを漁っていた時、この本の写真が目に留まり、「ローラ」に興味が湧いたというのが「ローラ」を訪れた本当の理由だったかもしれません。

ルイジアナは、水害がひどい土地。この土地にこれだけ大きな家を建てるには、しっかりとした土台が必要で、この邸宅の下には、地中深くブロックが埋められていると言うことです。こういった家に関する基本的なことを述べた後、スティーブンは、私達を一階の貯蔵室に連れて行きました。ここには大きな瓶がいくつもありました。電気がない時代、人々がどのように食物を保存していたかと言うと、この瓶の中に食べ物を入れ、地中に埋めていたらしい。水があるルイジアナの地中は、ちょうど冷蔵庫と同じくらいの温度で、食べ物を保存するのにちょうど良いということです。

ローラの曾おじいさんグイラウム・デュパルクは、血気盛んなフランス人だったらしく、決闘で父の親友の息子を撃ち殺してしまい、父の激怒を買います。その結果、海軍に送られ、フロリダでの対イギリス戦で、スペイン王カルロスに認められ、1792年から1803年までスペイン領だったルイジアナで、土地を与えられます。その後、ミシシッピー川の岸辺でプランテーションを始めました。このデゥパルクの娘エリザベスは、ずいぶん頭の良い娘だったらしく、彼女がデュパルク・プランテーションの相続人になります。そんなことを説明した後、スティーブンは壁に書かれたローマ数字を指し示しました。そこに書かれた数字は、何でもこの建物の年代を表すものらしいです。


一通り一階を見て回ると、ローラのお気に入りであったという庭を見学しました。幾何学模様の庭園は、12月だというのに緑に覆われ、手入れが行き届いていました。このような美しい庭園と、ミシシッピー川を眺める生活というのは、優雅なように聞こえますが、このプランテーションの経営がいつも楽であったかといえば、そうではありません。借金に苦しんだ時代もあります。南北戦争では、一家総出で逃げ出さなければなりませんでした。そういった南部人の生活が学べて、このプランテーションの旅は、私にとって、大変意義深いものになりました。

一階の見学が終わり、いよいよ本館と言ってよい、二階に上がります。「プランテーションハウス」とは、要するに、「大農園経営者の事務所、及び本家」といったところでしょう。自宅に会社があるといってもいいかもしれません。スティーブンのツアーの後に話した、このプランテーションの現在の持ち主なのではないかと思われる女性(私の勝手な想像ですが)によると、この当時のプランテーションオーナーにとって、「ファミリーは、ビジネス」だったらしい。つまり、この家は、「サトウキビ工場の事務所」で、そこに家族が住んでいた、と考えていいと思います。ある意味で、この感覚は、一階に店舗があり、二階に家族が住んでいる個人経営の店主宅といった感覚に近いと思う。こう思うと、ぐっとプランテーションが身近に感じますが、確かに規模はもっと大きい。そしてここには、黒人の奴隷がいました。これは確かに、日本の昭和的な商店街にはないことです。




二階の一室には、黄色い紙に書かれたローラの回想記の最初のページが、壁に飾ってありました。この用紙を指し示しながら、スティーブンは、
「ご覧の通り、クレオール娘のローラが、英語でこの随筆を書いています。」
と言いました。この言葉からも、彼が「クレオール人」を「フランス人」として使っているのがわかるでしょう。フランス語を日常会話に使っていたクレオール人が、なぜ英語で回想記を書いたのか。それは彼女が娘達に、古いプランテーションでの生活を書き残しておきたかったからです。この回想記は1993年、ローラの嫁ぎ先のセントルイスで発見されました。現在の「ローラ」の所有者が、必死で探し回った快挙です。この現在の所有者夫婦は、この回想録「Memories of the Old Plantation Home」(古いプランテーションでの思い出)を、彼ら自身が調査し、発見した歴史も書き加え、2001年に出版しています。この本が私がフレンチクォーターで見た本です。

二階には、高いベッドが置いてある部屋がありました。何でも、プランテーション初代所有者の長男は、パリで教育を受けたドイツ人と結婚し、美しい娘を持つのですが、彼女が16歳の時、パリで「ニキビ」の治療を受けさせ、それが原因で娘を亡くすという悲劇があったらしいです。そのことを悔い続けた母親は、生涯、そのベッドルームから出なかったということです。そんなことをガイドのスティーブンは説明しましたが、このことは、ローラの回想記にも出てきます。



家の中を一通り見て回ると、今度は外に行きました。まず最初に目に入るのが、「屋外キッチン」。この頃は、火事を恐れてか、屋外に台所があるのが普通だったそうです。今は廃墟と化してしまいましたが、プランテーション全盛期には、ここから母屋に食事が運ばれました。その近くには「キッチンガーデン」があり、自足時給だったようですね。キッチンガーデンの隣には「バナナの木」があり、そのバナナにもいろんな種類があり、アイスクリームにしたりと、色々違った食べ方があったようです。


そして次にスティーブンは、私達を屋根が付いた休憩所みたいな所に連れて行きました。雨が降ってきたので、雨宿りにもなったその場所には、なんと、プランテーションにいた奴隷達の値段表がありました。こうやって目の当たりにすると、本当に人間を「飼っていた」のだと、実感。奴隷たちにも色々違ったスキルがあり、やっぱりスキルが高い奴隷は、値段も高かったそうです。ローラが書いた回想記の中には、彼女のお祖母さんエリザベスが、奴隷に向かって暴言を吐いたり、もっとひどいことには、逃亡した奴隷に、焼印を押したことが出てきます。




次に私達は、奴隷達が住んでいた小屋に行きました。小屋はとても小さく、ここにたくさんの人間が住んでいたとは信じられません。小屋の中には、このプランテーションを所有している人達が作ったビデオが置かれていて、その宣伝と共に、同じ会社が主催しているニューオリンズのフレンチクォーターでのツアーについても語られました。私達はこの日、ルイジアナを出発しなければならなかったので、そのツアーに参加できなかったのですが、今度ニューオリンズに行く時は、絶対参加したいツアーです。ローラたちが住んでいたフレンチクォーターの家や、墓地なんかが見れるそうです。このツアーのことがあんまり気になって、ホームページにアクセスしてみると、ローラの家族の家系図が載っていました。そして、よく見てみると、なんと、ローラのお父さんと奴隷女性の間に、子供が生まれていたことを発見!ショックです!このこと自体は、ローラが書いた本には出てこないのですが、このお父さんの子供を生んだ黒人女性は、ローラの乳母として雇われ、彼女の子供も、このプランテーション内に住んでいたようです。この女性が奴隷として彼女のプランテーションにやってきたことを、ローラは、「とても幸運な方法で、彼女がやってきた」と書いています。ということは、彼女はこの乳母の子供が、彼女の腹違いの兄だと知っていたのでしょか?そしてローラの母は、この関係を知っていたんでしょうか?不思議です。ローラの母は、彼女の夫の母(つまりローラのお祖母さん、エリザベス)が、この女性を奴隷売買人に売り払おうとしている所を目撃し、夫に報告します。それに激怒した夫は、その場に駆けつけ、奴隷商人を追い払います。ということは、ローラのお母さんが、子供と離れ離れに売り飛ばされそうになっている、夫の子供を生んだ奴隷を助けたということになります。もし、彼女がその関係を知っていたら、こんな天使のような行動が取れたでしょうか?ローラの本によると、このお母さんは、とても優しい女性で、奴隷達にも、とても尽くしていたそうです。もしかしたら、そんな人なら、全てを知っていても、やっぱり助けたのかもしれません。が、私は事実は知りません。今度、ルイジアナに行ったら、絶対掘り出したいリサーチ要!重要項目です。

こんな風に、1時間くらいのツアーは終了しました。この後、最初の土産物売り場に戻り、ポストカードを買って、「ローラ」を後にすることにしました。

本当なら、時間があったら、他のプランテーションも見てみたかったのですが、なんせこの日は、ミズーリ州のセントルイスに向けて出発しなければならなかったので、そんな余裕もなく、その後、「ローラ」のすぐ近くにあるプランテーションを2軒だけ、外から見ました。



その2軒のうちの1軒は、トム・クルーズと、ブラッド・ピットの映画「Interview with the Vampire」が撮影された「Oak Alley」。ここに、トム・クルーズとブラッド・ピットが来たかと思うと、雨が降るのもなんのその、頑張って写真撮りました。晴れてたら、もっといい写真が取れたのにねぇと、ちょっと残念です。


この後、せめてランチをここの辺りで食べようと、ドライブすると、「ローラ」のすぐ近くに、「シーフード」と書かれたレストランを発見!ここなら、念願のザリガニも食べられるかもしれないと、期待いっぱいで中に入りました。最初に入った所は、地元の人のための食料品店なのか、魚屋のような雰囲気でした。その奥に通された部屋は、田舎のレストラン!といった感じで、あ~こういうのに来たかったのよね、と私は大満足。壁には、昔のこの地方の写真がたくさん飾られていて、「ローラ」の看板もありました。



これがその写真で、左から、Louis de Meziere Duparc (初代プランテーション所有者の長男、娘をニキビの治療で亡くす。ローラのお祖母さんの兄)、Elisabeth Duparc(初代プランテーション所有者の娘。プランテーションを相続。ローラのお祖母さん。奴隷に焼印を押したり、子供と離れ離れに奴隷を売り飛ばそうとしたのは、この人です)、ローラ、Nanette Prud'Homme Duparc(ローラの曾おばあさん、初代プランテーション所有者Guillaume DuParcと結婚)、Desiree Archinard(ローラの母)です。

このレストランは、お勧めです。ここでやっと念願の「茹でたザリガニ」とガンボを食べました!ガンボ、おいしかった~。ザリガニも、おいしかった~!このザリガニは、ただ単に茹でてあるだけじゃなくて、ケージャン料理のスパイシーな調味料が使われていたようです。この青いザルのようなトレイに入れられ、ドーンと登場!これで、確か5ドル以下だったから、信じられないくらいお得です。ニューオリンズのフレンチクォーターでは、絶対こんな値段では食べられないはず。本当のケージャン料理を食べたいなら、こんなルイジアナ州の田舎までドライブして、本当に地味なレストランに入ってみるべきだと思います。ガンボもおいしかったです。ここで初めて、「ルイジアナに来て良かった」としみじみと思ったくらい、感激いっぱい。プランテーションツアーに行くなら、絶対立ち寄ってください!念のため、住所も書いときます!

2155 Highway 18, Vacherie

ニューオリンズからドライブすれば、「ローラ」に着くすぐ前に、このレストランが見えてきます。(ちなみに「ローラ」の住所は、2247 Highway 18, Vacherie。すぐ近くなのがわかってもらえるでしょうか。)

こんなに長々と、プランテーションツアーについて書いてしまいましたが、この食事の後、セントルイスに向けて出発します。この時は既に午後3時くらい。夜中の2時近くまでドライブして、セントルイスの近くの街のホテルに到着します。(ということは、11時間のドライブだったということね。)最後は夢の中で運転しているようでした。このことは、次回までお楽しみに!

2010年2月21日日曜日

ニューオリンズ二日目、フレンチクォーターを散策





スワンプツアーからニューオリンズに戻り、ジャクソン広場前でバスを降りて、私達はまず、「カフェ・ドゥモンド」に行きました。ここで、有名な「ベニエ」というドーナツを食べました。ベニエは四角い揚げ物で、上にシュガーパウダーが、これでもかって程、かかってます。夫曰く、「フェンネルケーキみたい」で、私としては少々期待外れ。でも、カフェ・ドゥモンドでベニエを食べることは、ニューオリンズで絶対したかったことなので、経験できたことに感謝するべきでしょう。寒かったので、このベニエをこれまたカフェ・ドゥモンド名物の「チコリコーヒー」と一緒に食べました。

この後、ニューオリンズで一番行きたかった「カビルド」と呼ばれるルイジアナ州歴史博物館に走れど、閉館45分前!ショックです!そもそも、一番早いスワンプツアーがキャンセルされたことが、この日一日の予定を大きく狂わせ、NASA工場に立ち寄ったこともあり、ニューオリンズに戻ったのは、4時近く。こんなことなら、24時間営業のカフェ・ドゥモンドになど行かなければ良かった~!と思えど、後の祭り。でも、お昼ご飯も食べてなかったから、お腹が空いてたんです!でも、カビルド、行きたかったな~。ここは、「ルイジアナ買収」の調印式が行われた場所で、アメリカ第3代大統領ジェファーソンが、実際にサインした部屋があるそうです。その上、奴隷市場の様子や奴隷制度について学べるらしく、アメリカの歴史に興味がある私にとっては、外すことができないはずが、外してしまった!残念です。この後は少々、不機嫌になりました。たった2泊しかしなかったニューオリンズで、スワンプツアーに1日使ってしまい、後悔。あ~、もっとフレンチクォーターで時間を使いたかった!計画ミスです。

 と、こんなことでふてくされても時間の無駄なので、この後少々、ロイヤルストリートを歩きました。ロイヤルストリートは、アンティークのお店がたくさんあり、私としては楽しい所。しかし、「こんな小さな置物に150ドルも払う人がいるの!」と思うほど、私達庶民には少々お高いお店が多かったので、ここでは何も買いませんでした。この後、ホテルのマネージャーさんご推薦のレストランに行き、ガンボを食べました。本当は茹でた「ザリガニ」が食べたかったのですが、ここでもメニューにはない。本当についていない。


では、ここで、フレンチクォーターの町並みを写真でご紹介。







ここ、「フレンチクォーター」と呼ばれていますが、今残っている建物のほとんどは、「スペイン領時代」のものらしく、建築様式はスペイン風なんだそうです。鉄製の柵が美しいですよね。一番上の大きな写真は、ジャクソン広場のまん前にある「セントルイス大聖堂」です。私達が泊まったホテルのマネージャーによると、この日、このセントルイス大聖堂でコンサートがあるということだったので、時間になってドアを開けると、なんだかミサの最中だったらしく、司祭さんらしい人に、目で出てくように合図されました。おっかしいな~と思い、よくよく調べてみると、それは前日だったよう。あ~、またガサネタだ~!とにかく、この日のフレンチクォータ巡りは、あまりついていませんでした。既に暗くなってるし、寒いし。不機嫌度が高まる一方。この後、夫が「ストリートカーに乗りたい」と言い出し、雨が降り出した中、路面電車乗り場を捜しました。せめて、寒くなかったらね~、雨が降ってなかったらね~と思いましたが、これがニューオリンズ最後の夜。不機嫌なれど、小銭を握り締めて、ストリートカー、乗りましたよ。私の夫、はしゃいでおりました。このアメリカ中西部出身男、公共の乗り物に乗ったという経験がほとんどありません。ほとんど、遊園地に行ってる感覚です。まあ、夫がこんなにハッピーなんだから、ブーブー言うものでもあるまいと、大人な妻は、黙って窓の外の景色を鑑賞。丁度クリスマス前の時期で、ストリートカーが通っているガーデン・ディストリクトにある白い邸宅は、ほとんどがクリスマスライトで飾られていました。美し。あ~、やっぱり来てよかった~!

終点でストリートカーを降り、夫が今度は「バスに乗りたい!」というので、運転手が指し示すバス停でバスを待てど、なかなか来ない!
「ね~、こんないつ来るかわかんないバス待ってるんじゃなくて、さっき乗ったストリートカーで、もと来た所に戻ろ~よ~」
と訴えど、夫によって却下。悲しくストリートカーが去っていくのを見届けました。風が吹きすさぶ中、
「なんでこんな寒い中、いつ来るかわかんないバスを待ってなきゃいけないのよ!雨も降ってるのよ!」
と私の不機嫌は、癇癪に変わり、怒り爆発!夫に怒りをぶちまけど、
「かわいいね~」
と言う。(夫は、私が真剣に怒ってる時、プッと笑って大抵こういいます。私の弁舌が無駄になる瞬間です。)あ~も~、わからん!とにかく、ホテルに帰りたい!ふと見ると、近くの曲がり角に違う方向に行きそうなバスを発見!こうなりゃ、どこでもいいから、とにかくダウンタウン方向に連れて行ってくれるバスに乗ろうということで、そのバスに走って乗りました。運転手に確認すると、フレンチクォーターとビジネス地区とを分断する「カナルストリート」に行くらしい。GOOD ENOUGH!やっと暖かいバスの中に入り、気が落ち着いて、ガイドブックの地図と窓の外に見える通り名を確認しました。あ~、生きてホテルまで帰れそう!カナルストリートに着いたら、ホテルのマネージャーに教えてもらった「車」の運転手に電話して、迎えに来てもらおう!終着点でバスを降り、見上げれば横に大きなホテルがあったので、ここなら迎えに来てもらうのに良い目印になるだろうと思い、夫は早速運転手に電話をしました。この「車」の運転手とは、私達が泊まった「Super8」と何でも仲が良いらしく、お客が電話すれば一人7ドルか8ドル(記憶が確かじゃありません)で、ニューオリンズ市内ならどこでも迎えに来てくれるそうです。タクシーに乗るより安いし、安心できるので、客としては良いシステムです。この車が15分くらいで到着し、やっとホテルに向けて出発しました。ありがと~!人の良さそうな運転手で、天使のように見えました。

 ホテルに戻り、私達はニューオリンズ最後の夜をこのままで終わらしてはいけないと、「ミッドシティー」にある動物園のクリスマスライトを見に行こうと、車に乗りました。クリスマス時期なんだから、クリスマスらしいことがしたかったというのが動機なんですが、GPSの設置が間違っていたのか、着いた先がなんと墓地!明らかに行き先が間違っていましたが、ニューオリンズの墓地は、普通の墓地と違って、小さなセメントの小屋みたいな形をしていて、ツアーもたくさんあるのです。アメリカでは普通、棺おけに入った遺体を地中に埋めるのですが、ルイジアナ州の墓地がこんなに変わっているのは、何でも水害がひどい土地なので、地中に埋めると、棺おけがプカプカ浮かんでくるんだそうです。だからセメントで固めた小さな小屋みたいなのが、お墓なんだそうです。これが結構、芸術的なんですよね~。暗くて写真が撮れなかったのが残念。とにかく、ニューオリンズで見たかった物の一つが見れて、意外な所でプラス点でした。しかし、この公共墓地、危険なんだそうです。で、夫に
「みんな危ないって言うけど、何がそんなに危ないんだろうね。」
と聞くと、
「う~ん、そうだね。きっと麻薬取引者なんかが隠れていて、身包み全て剥ぎ取られて、その上、銃で撃たれて殺されてしまうんだろうね。」
と言いました。なるほど、それは危険です。

動物園は、大きな公園の中にあり、近くに美術館がありました。門の前に行って眺めてみましたが、なんだかクリスマスライトがあるような雰囲気ではありません。こんなものにお金を払って、僅かな時間、中に入るのもバカバカしいと思い、諦めてホテルに戻ることにしました。長かった一日。あんまりラッキーではなかった一日。しかし、冷たい雨が降る中バスを待っている間、昔聞いた言葉を思い出しました。
「人生、大変だったことの方が、良く覚えているものなのよ。気楽なことは後で、思い出に残らないわ。」
確かに。この言葉を思い出した時、プラスティック製の囲いがあるバス停の中に、地元のすし屋「ミキモト」の看板があり、夫が横にいて、道の向こう側にブロック作りの建物があったのを覚えています。もし、ここがこんなに寒くなくて、雨も降っていなくて、風も吹いていなかったら、この瞬間を覚えていることはなかったと思います。
「私はこの人と旅をしているのだ。一緒に人生を生きている途中なんだ。」
と思った瞬間でした。人生は不思議です。

ニューオリンズ二日目、スワンプツアー



 前日、ホテルのフロントで予約をした「スワンプツアー」に、この日は参加。初めは8時半くらいのツアーを予定していたのですが、天候だか、向こうの都合が悪かったのか、キャンセルされたため、11時くらいのに参加することにしました。「11時なら、午前中は他のツアーに参加しようか」と、最初は言ってたのですが、超疲れていたので、そんな気力もなく、時間が来るまで、ホテルの部屋で居眠り。もうそろそろ時間だから、下で迎えのバスを待とうとしているのが、下の写真です。






このホテル「Super 8」という、アメリカ全国どこにでもあるモーテルなんですが、ここニューオリンズのは、とってもニューオリンズっぽく、お値段も一晩55ドル(二人でです!)で、朝食付きだし、私達は大満足でした。左のオレンジ色のラウンジで、コンチネンタル・ブレックファーストが食べられます。日本人にはあまり好評ではないコンチネンタル・ブレックファーストですが、アメリカでは、ごくごく普通の朝食です。シリアルとか、べーグルとかですね。あと、オレンジジュースと、コーヒーなんかが付きます。

さてさて、しばらく待っていると、スワンプツアー会社の送迎バスが、ホテルの前にやってきました。他のホテルから乗り込んでいる客達と一緒に、スワンプに向けて出発。このバスの運転手は、観光ガイドも兼ねているのか、周りの景色を色々説明してくれました。「スワンプ」とは湿地帯のことで、途中、湖や川など、とにかく周りに水が多かったです。ハリケーン・カトリーナの被害を受けた家がそのまま残っている場所もありましたが、私が持った印象としては、意外と復興していました。超新しい家もたくさんあり、きっとカトリーナの後に建てたんだろうなと思います。




40分ほどのドライブの後、観光客が最初に入るのがここで、中にお土産売り場と事務所があります。ここでしばらく待っている間、ボストン出身の男性が話しかけてきました。日本人の私が珍しかったのか、「綺麗な人だね~」と言ってくれたので、少々、フフンという気分で、ボートに乗船。夫が最後の最後までタバコを吸っていたので、ボートに乗ったのは私達が最後でした。けれど、ボートは乗った場所から見ると後ろ向きに走ったので、私はボートの先頭に位置し、誰にも邪魔されずに写真が取れ、ラッキーでした。日本人が書いたブログの中で、「マイナスイオンが心を潤す」みたいなことが書いてあり、そんな心癒される森林浴もどきを想像していたのですが、私達が訪れたのは12月。それも曇り空で、ルイジアナ州にいるのが信じられないくらい寒く、とてもじゃないけど、そんな優雅な旅ではありません。それに、お目当ての「アリゲーター」がいない!どうやら、ワニも冬眠するらしいです。少なくとも、私達が行った時は、一匹も顔を見せてくれませんでした。スワンプツアー、冬に行くのはお勧めしません。







そうそう、ルイジアナ州は湿地帯にあり、水害が昔からひどいのか、特に湖や川や湿地帯の近くでは、こんな風な超高床式の家が多かったです。私が住んでいる中西部では竜巻があるので、大抵の家は地下室があるのですが、ここルイジアナで怖いのはハリケーン。同じアメリカでもずいぶん違うものだと思いました。





1時間ほどのツアーを終え、事務所に帰ってから、ツアーガイドが小さなアリゲーターを見せてくれました。今回のように、スワンプで一度もアリゲーターが見れなかった場合に備えて、飼っているのかもしれませんね。私、なんだかアリゲーターを持つのが怖く、頑なに拒んでいたら、ツアーガイドに頭の上に乗せられました!


この後、しばらくお土産屋でうろうろし、また同じバスに乗ってニューオリンズに向かいました。途中、NASAの工場があり、立ち寄りたいかとバス運転手が私達に聞いてきたので、全会一致でNASA工場見学に行きました。と言っても外から見るだけなんですが、敷地内にあるどでかいロケットを写真に収め、満足、満足。こうしてニューオリンズに戻り、スワンプツアーは終了しました。

2010年2月14日日曜日

ニューオリンズ1日目(2009年12月10日)



ずーっと長い間、書かずに放っておいた「メンフィス、ニューオリンズ、セントルイス」への旅行の続きから、このブログを開始したいと思います。ブログだとなぜか、気軽に書けるのが不思議。ホームページの方は、何かと生真面目な文面になりがちなのですが、もう少し、話口調的に書けたらなあと思ってます。

ではでは、この旅行は、2009年12月8日から始まりました。自宅があるカンザスシティーから、ドライブでアーカンソー州に行き、一日目は終了。翌日12月9日はテネシー州メンフィスに行き、ブルースで有名な「ビールストリート」で昼食にバーベキューを食べ、「ロレインモーテル公民権運動博物館」で、キング牧師の暗殺事件を学び、夜はまたビールストリートで、ブルースを聞きました。その翌日12月10日の朝、エルビス・プレスリーが初めて録音した「サンスタジオ」を見学。その後、エルビスが住んでいた「グレースランド」を外からチラッと見て、ルイジアナ州ニューオリンズに向けて、ドライブを開始しました。今回のお話は、ここからです。(これまでの旅行は、また後で更新します。)

さてさて、テネシー州のメンフィスからニューオリンズまでは、かなり長い道のりで、その間のミシシッピー州は、とても大きな州でした。でも、周りの風景はとても美しく、緑豊かな風景がどこまでも続くといった感じで、お勧めです。この長いドライブの前半を私が運転し、後半を夫が運転しました。途中、ミシシッピー州のどこかの「サブウェイ」でサンドイッチを食べ、テネシー州に入った頃は、日も暮れて、すでに真っ暗。いつの間にか気付いたら、海のように広い水面の上の橋を渡っていました。この橋がとても長い!ニューオリンズには、確か世界で一番長い橋があるので、その一部だったのかもしれません。帰りのラッシュ時だったため、周りはたくさんの車が走っていて、ニューオリンズに近づいているのがわかりました。

まず「フレンチクォーター」に行って、そこを歩こうという事になり、何とかGPSを頼りに辿り着き、「オムニホテル」の駐車場に車を留め、散策開始!夜のフレンチクォーターは、なかなか旅情を誘う、いい雰囲気でした。夫はやっぱり、「ビールが飲みたい!」だったので、一番有名な「バーボンストリート」に行き、適当に歩いて見つけたバー「Krazy Korner」に入りました。中はすごい音響!すぐ隣にいても、大声張り上げないと、聞こえません。



上の写真がKrazy Kornerの様子。暗くてちょっとわかりにくいんですが、ステージの真ん中で踊ってるように見える男性が身に付けているのは、「frottoir」と言われる楽器で、洗濯板のような形(元々は洗濯板を使っていたんでしょうね~)をしています。これをスプーンでガシャ、ガシャと、音を立てます。すごい音です。でも、これがかっこいいんですね~。こんなの、今まで見たことありませんでした。この日に泊まったホテルのマネージャーさんに後で聞いたら、こういうケージャン音楽は、「Zydeco」(ザイデコと読みます)と呼ばれているそうです。この洗濯板奏者は、踊る踊る!それでもって、彼の横のアコーディオン奏者がシンガーだったのですが、(アコーディオンも、ケージャン音楽の代表格だそうです)、彼の歌もすごいパワー!ここの音楽は、私はとても気に入りました。あ、でも「ニューオリンズ イコール ジャズ」と思っていると、かなり邪道に見えるでしょうね。ここの音楽は、ジャズじゃありません。「ロック」です。でも、洗濯板やアコーデオンは、やっぱルイジアナ州独特のものでしょうね。翌日に行った他のバーでも、洗濯板を付けた若いバンドがあったので、若い人たちの音楽にも組み込まれているんでしょうね。ジャズを聴きたい人向きではありませんが、ただ単に「音楽が聞きたい!」という人には、お勧めです。

さてさて、この後、うるさいバーの上にあるテラスに上がって、バーボンストリートを眺めたのがこの写真。バーボンストリート、結構長いです。




この後、ニューオリンズでどうしても食べたかった「カキ」を食べるため、フレンチクォーターで有名なオイスターハウス「Acme」に行きました。待たされるかなと思ったんですが、カウンター席でOKと言ったら、結構すぐに中に入れてくれました。メニューを見るまでもなく、とりあえず生のオイスターを頼んだら出てきたのが、一番上の写真です。ウマウマです。カキなんぞ、最後に食べたのはいつのことやら。記憶にありません。(アメリカでないのは、確か。)この後、本当はルイジアナ名物の「ザリガニ」を食べてみたかったのですが、私が見たところ、メニューに無かったので(でも他の方のブログには登場しているので、きっと私が見つけられなかっただけでしょう)、「フライ」を頼みました。南部では、揚げ物が多いですね。そうそう、ここで明記しておきたいんですが、良く日本人のブログには、「南部名物のキャットフィッシュ」という言葉が出てきます。しかし、私はアメリカ南部には住んでいませんが、「キャットフィッシュ」はほとんど毎日のように食べています。私にとって、「魚」と言えば、「キャットフィッシュ」です。普通にスーパーで買えます。レストランにも、メニューにあります。カンザスシティー在住の今はもちろん、その北部のネブラスカ州に住んでいた時も、「キャットフィッシュ」、良く食べてました。だから、「南部特有の食べ物」ではないと思います。




そんなことはさておき、この「Acme」はとても有名で、この間見たFoodnetworkの番組でも紹介されていました。ここでおいしく食事をした後、駐車場に戻り、そこで働いていた「オムニホテル」の従業員に、「どこか安くていいホテルはないか」と聞くと、色々候補を挙げてくれたのですが、結局、私が事前に目をつけていたホテル「Super 8」にしました。ここは、大当たり!車がなければ、少し不便な場所にありますが、ニューオリンズで1泊55ドルは、大変お得です。それでもって、部屋も申し分ないほど綺麗で(私達にとっては)、可愛いソファーもあるし、色もきれいだしと、大満足。ここは、とてもお勧めです。

こうして、この日が終了。翌日は、寒い中、「スワンプツアー」出かけます。

「ダービン家 地球を行く」を、ブログに移行します

今まで、私の旅行記は、ホームページ形式の物に綴っておりましたが、今回思い切って、ブログに移行することにしました。そもそも、旅行記にブログをなぜ使わなかったかと言うと、単純に「写真の掲載方法がわからなかったから」。こんな間抜けな理由で、ブログを利用しないのは情けなく、写真掲載方法も判明したため、ブログを大いに活用したいと思います。では皆様、乞うご期待!